彼は涙を拭わず自然に任せた。潮風や陽の光がその道筋を太望に、カーレンに、スピカに花火に、そしてマーラに見せつける。
「ニコ君の父を殺したのは君だ」
オーレはそして、静かに原罪を暴いていく。
「――あ……」
太望は――思い出したくもないそのことから現実でも後ずさりし、オーレから、その罪から離れていく。
しかし、泣く男は太望を鋭く睨み、逃がそうとしない。
「花火君は妹を殺そうとしたじゃないか」
花火は顔を顰めた。いつか京で告白したことだった。花火はその事実から逃げていない。しかし面と向かって言われて快いものでは決してない。顔をしかめたまま、花火は李白のもとへと歩いていく。
「花火、さん」
李白も項垂れている。花火はただ、傍に立つ。言葉にはされずとも、李白も原罪を暴かれている。自分の都合で、結果的に妹を殺してしまったのだと。震える彼女の肩を、花火は優しく抱く。
オーレはそして泣き顔をスピカに曝す。スピカは無表情に近いが、やはり困惑の色を隠すことは出来ずにいた。柳眉が微かに歪んでいた。
その泣き顔を自分に曝して、何になるというのだろう。
実際、焦燥を感じていた。今まで自分の上にいて、悠然としていた彼が惜しげもなく見せる感情の発露に、為す術がなかった。
自分もまた、原罪を見せつけられる。
「スピカ君だって」
オーレは泣いている。誰にも曝したことの無いだろうその顔で、スピカをただ見ている。
「スピカ君だってその綺麗な顔で、あの夜何人殺してきた!
ましてや僕なんか……僕、なんか……」
彼の涙が途切れることはなかった。べたついた道筋は幾重にも重なって河のようだった。
スピカはオーレの過去など知らない。知らないけれど、彼はいつだって笑っていた。自分をからかっていたし、見守っていた。その顔が、嘘とは思えない。
ではその裏で、彼は涙を流してきたのだろうか。流していないのだろうか。
彼の過去など知らない。だけど、きっと彼は、涙を流してこなかったのだ。
スピカは直感で、そう思う。確かな裏付けなどないが、何かが、あってから。
「誰もが」
オーレはそのさめざめと濡れた瞳でスピカを、マーラを睨んで、カーレンを視線で貫いている。
「誰もが殺めることの罪と呪縛からは、逃れることなんて出来ないんだ!」
涙声で獅子は咆哮した。
「やめないか!」
太望が大声で言い放つ。まるで罪から逃げることをやめるように。そして走り出す。
「いいかげんに、するんじゃ!
今は、そんなことに拘っている場合じゃ」
自然と、拳は高く上がった。オーレの顔面に直撃するかと思われた。
しかしオーレは拳を拳で止めた。太望に認識する隙も与えないままオーレはもう片方の拳で太望の分厚い肉体を容赦なく、殴った。
「ぐ……!」
止めた拳で太望の顔面を殴る。太望は怯まず、鳩尾に突撃してくる拳を止めた。
凌ぎ合いだ。スピカもカーレンも、普段大人しいオーレが隠していた武道に少し目を見張った。
「オーレさんっ、落ち着け、落ち着くんじゃっ」
「君のようにね」
オーレは強く太望の脛を蹴った。太望の手が離れることで肩の抑えが無くなり、太望の胸に正拳突きをお見舞いする。
苦しそうに咳込みながら、太望は無残に砂浜に倒れた。
「僕だってね、純粋な心を――泣きたければ泣いて、辛い時は素直に苦しいと言える心を持ちたいんだよ!」
倒れた太望に向かって、言葉でも攻撃するようにオーレは叫ぶ。
「十年も、十年も同じことに苦しみ続けたくなんか無いんだよ、本当は!
無理をしないで、嘘なんかつかないで、心からあの子の隣で笑いたいし、泣きたいし、愛したいんだよ!」
だがそれは、太望に向かってではないのだろう。
ただ、自己に向けて叫んでいるようにしか、少なくともスピカにはそのようにしか見えなかった。
「だけど、だけど僕は荒ぶる獅子だ。
冥界に連れ攫われた乙女でもないし、勇者に踏み潰された巨蟹でもなければ、
女神から遣わされた蠍でも、正邪を量る天秤でも、親子の絆で結ばれた双魚でもない。
面白いことにね、僕は十二宮の中で一番悪者なのさ。
当てはまり過ぎて笑っちゃうよ! 最も、呪われた存在さ!
苦しみ続けなくちゃ、いけないんだ。
誰も、誰も僕を許してはいけないんだ!」
オーレの涙が空気の抵抗で散る。太望に殴りかかったからだ。
「やめて!」
カーレンが、その動きを声で止める。
「やめてやめて、やめてえっ!」
震える手で耳を塞ぎ、同じく震える足は脆く折れ、カーレンは砂浜にへたり込んだ。彼女もまた、泣いていた。
「そうよ、その通り」
場を凍てつかせる声が再び木霊した。嘆きに溺れるオーレを見て目を残酷に細め、狂ったように嗤っていた。
「お利口ね、獅子宮さん」
ゆっくり、ゆっくりオーレは空中で留まった手を沈めさせ、泣き濡れた顔を向けた。
「あなたがあんまり賢いものだから、みんながあなたを恐れて」
すうっと、針のような指でオーレを指す。全ての悪を突きつけるような態度だった。
「――そして、誰もいなくなる」
目を丸くして、ただ狂女は嗤う。壊れた人形がするように。
「楽しいわね。楽しいわね?
あなたと私は同じ獅子だもの。
そう、あなたの言う通り、誰も許すはずがない。
あなたはたとえ、独りになっても――」
世界に、マーラとオーレだけ残されているような感覚が、見る者にひたひたと、忍び寄る。
閉ざされた檻。誰も鍵を持たないから、二人を繋ぐ秘密という錠を解くことは出来ない。
囚われの手負いの獅子は、誰も救えない。
しかし。
「黙れ」
命じるようにスピカは言う。その感覚が、津波よりも激しく押し寄せる世界に、凛と響いた。