花依は館山城の一室で、失神したまま眠っていただが、日が暮れ、月が出てからようやく目を覚ました。
月光が漏れる窓からは外の楽しそうな声が聞こえる。目をその窓に向けると、誰かが立って、何かを見ていた。
信乃だった。彼は無色透明の、月明かりに少し照らされた珠を見ている。
「信乃さま?」
声をかけるなりわあと驚いた声を上げ花依の方に振り返った。
「お目覚めでしたか」
「ええ今さっき。信乃さま、どうしたんですの?」
信乃はもどかしげに首を掻く。
「その……変なことをしに来たわけではないんで、安心してください」
シュリさんがすごく怖いから、と苦笑すると思わず花依も笑ってしまう。それから信乃は、枕元に置いてあった何かを取り上げる。
「お腹、空いていらっしゃると思って」
それを聞くなり、花依は思わず頷いてしまった。捕らわれた時からあまり十分に食べていないのであり、当然空腹は酷かったが、言いだすのにやはり抵抗があって我慢していた。信乃の心遣いが本当に嬉しく、彼に対する好きという純粋な気持ちが心から溢れ出た。
二人揃って、白い米のお結びを食べる。静かに時が流れていると、この穏やかさに思った信乃は、何気なく、言葉を零す。
「あっという間だったなあ」
「――旅の、ことですか」
うん、と信乃は頷く。
「あっという間だったんだけど、いろんなことが起こったから、大変だったし、悲しいことも、やりきれないことも、怖いこともたくさんあった。
けど――双助達とこうやって、何とか十二人集まることが出来て、本当に良かった」
信乃は何かを勘定するように指を動かしては、空気を弄んでいる。
「きっと陽姫も復活する。復活してくれないと、やりきれないよ。
復活したら……多分、玉梓の怨霊や呪いや化身に苦しまなくて済むかな」
そして哀しげに笑った。
「信乃さま……」
花依はその瞳に、自分ではない花依を感じた。そしてその他の、運命線から外れてしまい、惜しくも命を落とした人々の姿も見た。それが全て、玉梓という怨霊の呪いだとしたら、と思った途端、花依は妙椿のことを思い出す。
あの恐ろしい赤い目の奥から、必死になって花依に縋ってきた切なさや痛ましい辛さが静かに体に甦った。
甦ると、――あんなに怖かったのに、どこか憐れに思える。
あれが、怨霊の正体か。多くの人を殺し、呪った者か。なのに、なぜ。
だから花依は口を開く。
「あの……信乃さま。あの尼……妙椿とかいうあの人も、玉梓の?」
「うん。だと思う」
いや、思います、と信乃は姫である花依に対してようやく口調を改めたがそのままでと花依は言う。
「私は、あの妙椿が、そんなに悪い人には……見えませんでした」
信乃は驚いたようだが花依は続けた。
「それは確かに怖かったですが――暴力もふるわれましたし、脅されもしましたし」
その痛みは大分引いていた。花依は掛け布団を握り締めたり離したりしながら、彼女との最後の場面を思い出す。
――許されぬ。決して許されぬ。私を、
――妾を許しては、いけぬ。
世界が悪いのではない。里見が、辰川が、山下が神余が悪いわけでもない。
悪いのは、何もしなかった、妾じゃ。
「あの人は、誰か……十人くらいいましたけど、誰かを、私にとりつかせようとしていたんだと、思います」
もう、会えなくなってしまった誰かを呼ぶ声だった。
花依の体質を考えると、そうとしか思えない。――かつて玄冬団でも死者が出た時、多くの者が花依の体に降りてくれればいいと願っていたことを思い出す。時には暴力沙汰に及びそうになったこともあった。その度、シュリが庇ってくれた。
死んでしまえば、もう逢えない。たとえ自分が死んでも、もう逢えない。
だけど人は、ありえない再会を望む。それは花依にも当然あるはずの想いで、信乃こそ、言わずもがなである。
そんな想いを妙椿も――玉梓も、抱いていたのだ。
「その時私にかける声は、痛々しくて悩ましげで……何というか、こちらも悲しくなってしまうような声だったのですわ。
それから、母がどうとか、私が悪かったとか……そんなことを言っていました」
最後に、花依は言う。信乃と、目を合わせて。
「信乃さま――妙椿は――いえ、玉梓は、本当に、悪い人なのでしょうか?」
花依は、信乃を見つめた。
信乃も、花依を見つめた。
「……それは……」
信乃は大分呆然としていた。
玉梓を敵だと、悪いと据えることで信乃は危険な運命線を辿ってこれた。そうでもしないと、自分から死を選びそうな気がするからだ。
父は自害した。花依は殺された。刀はすり替えられ、追手から逃げるために人を何人も殺した。
それでも生きてこれたのは、敵を作った時に自然と生まれた味方が傍にいたからだ。
「……それ、は……」
だが、信乃は知っている。理不尽な、十二人の虐殺を。悪いのは里見だろう、それを指示した辰川家だろう。
だけど玉梓の呪いは自分達に大きく向いているから、だから、信乃は玉梓を悪としてしまうのだ。
しかし、事実を知っている信乃はもう、はっきりと、自信を持ってそう肯定することが出来ない。
「――ごめん。おれにも、わからない」
目を伏せて、そう言った。