「早く認めてしまえばいいのよ。一度はきちんと認めたじゃない。
このあたしも私だって。それの、ちょっとした続きなだけよ」
そうしたら、と彼女の悪意のある微笑は一瞬消え失せ、憤った顔で叫んだ。
「そうしたら、そんなに怯えなくって済むんだから!」
何も悪いことをしていない。なのに何故こうも幻像の声が自分を竦みあげるのだ。
「それは――私が私でなくなるってこと?」
やっと出た声は、小さかった。触れることが出来ればきっと冷たかったはずだ。恐怖で凍えてしまったが故に。
その言葉を待っていたかのように――水面は揺れる。怪しげな笑いに、彼女の顔は歪む。
「本当のあたしになるのよ」
叫びはしなかった。もしここが夢の世界ならば、つんざくような断末魔にも似た声を上げ、夢の帳を引き裂いて現実に戻るところだろう。だがここは風が吹き鳥が鳴き、空は青く雲は白い、あらゆるものが色と形と質量を持つ、確かな現実の世界だった。喜備に逃げ場所は無かった。
しかし、その声を聞き遂げた途端、喜備は走り出していた。突然生まれた疾風が頬を切る。とにかくその場を、噴水のある場所から逃げだせば、もう声は聞こえないと浅はかに思ったのだ。それが喜備の精一杯の必死さだった。
「無駄よ、逃げようったって」
耳の奥で声が聞こえ、喜備の望みは断ち切られた。だからといって喜備は動きを止めなかった。尚更走り出した。この前と同じで、駆け出して自分の体を酷使させれば、肉体の状態と相互して精神も擦り減ると思ったからだ。しばらくの間、「声」は収まるはずだ。
僅かな希望に喜備は掛け、駆け抜けた。
「あたしは――あたしなんだから!」
怒りを含んだそんな哄笑が体に響き渡る。そうすることも無駄だと言わんばかりのそれに、ただ喜備は泣きそうになった。
もう一人の存在を認められない。認めたくなどなかった。幻に確かな体を渡した途端、人間観が変わってしまいそうだった。
友達どころか、家族も周りの人も、誰も信じられなくなる。あるいは、あのか弱い生徒を嬲っていた生徒達のように、誰かを虐げるようになるかもしれない。そのどちらもが恐ろしい。認めた瞬間、喜備が今の喜備で無くなるということは、それは死んだも同然だろう。
ただ喜備は恐怖を感じた。
もう二度と、美羽や幹飛と会えなくなる? 家族や、蓉子や蓮実、大学で出来た友達や教授達とも?
亮にも会えなくなる?
あんなに謝りたかった、春龍とも会えないままなのか?
本当の自分はここにいるはずなのに。自分のはずなのに。
この自分のまま、もう一度彼女達と――春龍に会いたかった。
(消えちゃうのは嫌、死んじゃうのは、嫌)
怖い! と心中で叫ぶ。もう幻の声は聞こえないが、喜備は暴走した車のようにただ走りに身を任せていた。涙が、疾走の風に流れた。
(美羽に、幹飛に、みんなに――亮君に。
先輩に、先輩に――)
強く思ったその時だった。
「危ない!」
強く自分の手が掴まれた。喜備の体は急に止まり、慣性で体は前のめりになった。その一瞬後、喜備の目の前を黒い車が不機嫌そうに走っていった。
そのまま走って行ったら、ぶつかっていたかも知れない。心臓にはその物理的な恐怖への鼓動も重なって、さすがに失神しそうだった。だけどまだ喜備の手首を強く握る存在が気になって意識を手放せない。
ゆるゆると焦点をその人物に当てて――喜備は息を飲んだ。
「春龍……先輩」
彼も驚いているようでレンズ越しの目を丸くして、息を荒くしている。
春龍は、いつも見せていた微笑する余裕さえ閃かせなかった。ただただ、喜備を不安そうに見つめていた。