喜備は先輩、と息をつくようにもう一度呟いた。掠れた弱い声は閑静なその場所でも聞こえなかっただろうが、互いの息がかかる程の距離に、彼はいる。春龍には、喜備の鼓動さえも伝わっているかもわからない。何をどうしていいかわからず、ただじっと彼の眼鏡越しの目を縋るように見つめた。こんなに長い時間人の目を見たのは初めてかもしれない。
「驚きましたよ」
 彼もため息交じりで呟いた。そのため息は、状況を考えるならば安堵の息に近い。
「喜備さんが走ってくると思ったら、そのまま道に飛び出していこうとするものですし」
 それでもやはり依然として胸が昂っているのだろうか、喜備の手首から彼は手を放そうとしないし、落ち着いた微笑みを浮かべる余裕もないようだった。しかし、ここは? と喜備が恐る恐る尋ねると、微笑みは案外すぐに示された。
「紅茶館の近くですよ。今、私は休憩中でして」
 その柔らかな笑みと言葉を聞いて、ようやく喜備の胸もほぐれてきたようだ。はあ、と言葉交じりの息をつく。それでも油断しているとまたどうにかなりそうだ。収まりつつあった鼓動はその危機感に呼び起され、肉の袋を叩く。開きかけた口はまた閉ざされてしまった。何か言わなければ、と思っても、不器用に泣いた後のように声が上手く出せない。震えさえ甦ってきた。
「喜備さん」
 春龍は一度笑みを解いて喜備を見つめると、強く握っていた手首からそっと己の手を離す。そしてその手で喜備の頭を優しく撫でた。突然の天からのぬくもりに最初は驚いたが、次第に心が落ち着いていった。温かい人柄がにじみ出ていて、それだけでもう自分は大丈夫だと思えてならなかった。目頭がきゅうと熱くなる。
「紅茶館へご案内します。あんなに走って疲れてしまったでしょう?」
 喜備の手を取る。強く、しっかりという程ではないが、手を繋いでくれる。優しさと頼もしさと愛しさが溢れ、ますます目元は赤みを帯びていった。
 紅茶館までは実際それほど距離は無かったのだが、繋いだ手の温もりが不思議と長く感じさせた。それは心と体を必死で宥め、癒そうとする意識の働きかも知れない。ただ夢うつつのようにぼんやりとした感覚に揺られながら喜備は導かれていった。



 紅茶館が見えてくると丁度扉が開き、数人の女性が優雅に談笑しながら現れた。どの女性も有閑婦人という名称が相応しく見える。落ち着いた物腰で帰路に着こうとしていた。しかし春龍を見付けるとあら春龍君と上品な声がかかった。春龍はその声に劣らない繊細な微笑みを返し、お気をつけてお帰り下さいと会釈する。どうやら、婦人方には贔屓にされているようだ。そんな一連の出来事を、喜備は段々現実に慣れていく中で見届けていた。だがそれについての感想を出すことはまだ出来かねていた。
 今退出した婦人達が最後の客だったらしく、店内は黄桜しかいない。黙々とグラスやカップを磨いていたが春龍の顔を見て動きを止めた。――というより、喜備を見て動きが止まったのかもしれない。彼の瞬きは、光が点滅したかのように大げさに見えた。
「あ、あの」
 お久しぶりです、と喜備は普通に頭を下げたつもりだったが、やはり微かな震えを感じている。声も小声だ。黄桜は軽く会釈をしたがそれきりで、春龍にさえ何も言わず作業を止めて何処かへ向かった。厨房にでも行ったのでしょう、と春龍は困ったように、どこか可笑しそうに言い、喜備を席に案内する。
 少し奥まった所にあるが、窓際の、空がよく見える席だった。陽の光もよく差し込んできて、特等席扱いされているのではないかと思える程、調度品も凝っている。
「では私は紅茶を淹れて参ります。どうぞ、おかけになってお待ちください」
 すっと椅子を引かれ、吸い込まれるようにして腰を下ろした。調度品の深緑や茶色が落ち着いた印象を与え、陽の光もきらめくその空間はまるで森林浴をしているのではないかと錯覚してしまう。すべての事象や生物が、ゆっくり時を刻み、静かに気を律して、落ち着かせている。店内は日光のこともあって暖かかった。それでも涼やかで瑞々しい風が吹いたように思えた。
 だから喜備の心も体も、過剰な熱が冷やされてようやく本来の動きを取り戻そうとする。ゆっくりと夢から覚醒していくように、何の束縛も感じさせない。瞬きをして、ただそこにあることが当たり前と言わんばかりに自分の存在が自然に思えた頃には、紅茶を淹れた春龍が戻ってきた。
「今日はアップルティーを淹れてみました」
 私の一番好きな紅茶ですと声を幾分弾ませていた。ほのかな柑橘系の香りが鼻孔を掠める。喉の渇きを急に感じて、いただきます、とカップに手をつけた。
「どうですか?」
 すとんと嚥下すれば、紅茶の持つ清涼感が細胞全部に行き渡ったような気がして、一瞬何も言えなかった。彼が優しく頭を撫でた時のように、やはり全てが浄化されていくように、元通りになるように思えてならなかった。美味しいです、と呟くと同時に喜備の目からぽろりと涙が零れた。天から降る最初の雨粒のように、それは思いがけないものであった。驚くほど何の予感も無かった。春龍も狼狽えたのか少し腰を浮かす。
「大丈夫ですか」
「先輩」
 ごめんなさい――そう言葉を継ぐのが速いか、顔を伏せるのが速いか喜備にもわからなかった。嗚咽は無く、しとしとと降る雨のように喜備の頬を赤く染めていく。二三度拭って喜備はそれよりも大事なことにようやく意識が向いた。

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