三国紅茶館へ向かおう、と意気込んだまでは良かった。春龍はそこで働いているらしいから、運が良ければ会えるかもしれない。
しかし、距離が縮まるにつれて歩く速度はしょげかえるように下がっていく。実際喜備の顔色と比例していた。ある公園の手前でとうとう歩は止まってしまい、手持無沙汰でその公園に入っていった。
木々は街中にあるものにしては背が高く、緑に溢れ木漏れ日と日陰のコントラストが過ぎ去った初夏と、これから来る盛夏を思わせた。その間に存在する梅雨のことなど、知りもしないような空間がある。
少し進むとその森林浴に最適の環境はがらりと変わった。きっと出来たばかりなのだろう、真新しい噴水が、勢いは強くないがそれでもきらきらと空間に水を飛ばす。十分腰掛けられるスペースがあったから、そこに喜備は座る。
この場所に留まらなくても、多分店の前まで行ったら、不審者よろしくうろうろして入れずにいたに違いない。冬に亮の屋敷の前で茫然としていたことと似ているが、いざという時はどんな場合も勇気が要ることを思い知らされた。
「黄桜さんは怒っていないって言ってたけど……避けられてるよね、やっぱり」
何度電話をかけても出ないのはおかしい。春龍は海外暮らしが長かったから、もしかしたら彼なりのジョークや処世術か……そう苦しいことを考えてみたがそんなわけは無いだろう。喜備は独り言を苦笑で閉じた。
自分がまた侵食される危機だったとは言え、茶器を割り、血のような紅茶を零し、彼を拒絶してしまった。そこには決して良いサインなど隠されていない。そこに誰もいないのにごめんなさい、と呻くように呟いた。
春龍は今どこにいるのだろう。喜備は空を眺めた。白い雲がゆったりと、のんびり動いていく。まだしばらくは晴れの日が続きそうだった。
このまま梅雨なんか来ないで、夏が来ればいいのにとぼんやり思う。別に喜備は特別夏が好きというわけではないが、今こんな状況にいるからだろう。暑くて空も高いその季節に、何もかも任せてしまいたかった。
「友達になれると思ったのに」
そんなことは言わないつもりだった。言ったら、まるでそこに友情は無いように聞こえるから。
「だから言ったでしょ。友達なんて幻よ」
「そうかもしれないね」
何気なく喜備は返した。溜め息をついた時、事態のおかしさにようやく気付く。
この噴水の周りに喜備以外誰もいない。少し先にはのんびり犬の散歩をしている人や子供を連れて遊んでいる人の姿が見えるが、あんなにはっきりした声が届くには距離があり過ぎた。第一、その声は喜備のよく知るものであるが。他人の声ではない。
自分の声だ。
「え……」
そう声を零して喜備は言葉を失う。
今までだったら、喜備の内側、心中の声の如く聞こえていたはずの、あの声だ。今度は自分の真後ろから、耳に囁かれたような実際の近さを感じさせる声。ごくりと唾を飲む。
後ろ、と喜備は振り返る。噴水がにこにこ微笑しているように水を散らせて、波紋を描く。陽光をきらめかす清らかな水面に、喜備が映っている。
だけどそれは、よく見たら自分では無い。微妙に違っている。本人にしかわからないと言わずにはいられない、別の存在だ。
「はあい、喜備」
ひらりとどこか優雅にも見える手付きで彼女は手をあげ挨拶する。当の喜備はあまりの事態にぽかんとして微動だにしなかった。水面の世界――向こう側の世界の自分が、乗っ取られた。反射のような機敏な動きで喜備は顔に手を当てるが、あちらの喜備はそんな動作をせず、気だるげに髪をかきあげたり、頬を掻いたりしている。
「嬉しいわ、ようやくこうして向き合えるようになって」
せせら笑うようにすっと口の端を上げた。どこか妖艶なその仕草は喜備には無いものだ。
「あ……あなた……」
出た声は少し掠れている。このまま後ずされば、視界から消えるだろう。この震えも収まるだろう。だけど、水面からの視線がまるで待ち針のようになって喜備を空間に押さえつけているかのようだった。奇妙な緊張感に、喜備は動きを奪われる。
「誰? なんて、言うつもりなの?
あたしは私、つまりあなたよ喜備」
ゆっくり彼女は笑みを深める。獲物を目前に控えた獣の目だ。あなた、いやあんたと話がしたかったのよ、と艶めかしく――しかし途中からどこか怒気を孕んだようにも聞こえた。
「……自分が自分を押し込めていたことに気付いた?」
喜備は目を丸くする。きっと、この間思い出した中学校であったことだろう――自分なのだから、知っていておかしくない。やはり種はあそこで生まれたのだ。
「喜備、あんたは善人でありすぎたのよ。
だから無理が生じてしまった。それが底の方に押し寄せてきた。わかる?」
何を言うべきか迷うが、そもそも声が発せられない。怯えて、震える以外のことが出来ない。息もしていないような気分だった。白昼夢の中の悪夢は、こういうものなのだろうか。
わかってる、わかってる。喜備は鼓動を重ねる度思う。だけど、友情を捨てたり、壊したり、否定したりするようなことを、冗談でも言いたくないし、認めたくもなかった。
友達が離れるのが怖かった。友情の温もりを失うのが嫌だった。だから、そんな風に思おうとする自分ではない自分を認められなかった。無意識に押し込めていて、ずっとずっと気付かなかった。
それの何が悪い。本当の自分は、今ここにある喜備だ。思春期の自分はそう決めたのだ。ただ一人だ。喜備は強く目を閉じた。
しかし、ここには喜備が、二人いる。
そして水面外の、そう思う自分は、ただ怯え、震えていた。