二人で席についた時、男性は薄雲春龍です、と名乗った。表情や雰囲気と通じるものがある紳士的な口調と、ややもすると齟齬をきたす、やけに男らしい名前が出て少し喜備は驚いていた。しゅんりゅうさん、と思わず口に出すと彼は笑みを深めた。
「あ、えっと、一年生じゃない、ですよね? だったら、薄雲先輩」
「ええ。私は本来なら三年なのですが、帰国子女だった関係でまだ二年生なのです」
帰国子女、とまた喜備は心の中で呟く。なるほど、そう言われてみると彼の纏う大人っぽさは、おそらく長年の外国育ちに由来するものではないかと思わせられる。それを察してか、また彼は微笑む。
「それと、春龍と呼んでくださっても構いませんよ」
言葉に詰まる。いきなり名前でなんて、と喜備は恥じらったが、誘った自分の方が名乗っていないことに気付き慌てて頭を下げた。
「あ、あの、一年の柳井喜備です。社会福祉学部です」
「はい。喜備さん、よろしくお願いします」
自然に名前で呼ばれてしまったので、喜備も彼を春龍先輩と呼ぶことにした。美羽も幹飛も亮も両親も喜備と呼ぶのだし、そこまで抵抗は無いと思われたが、年頃の男性だからだろうか、若干気恥ずかしい。そして、そんな年頃の異性を自分から誘ったという突飛な行動にも恥ずかしさと不自然さを感じ呆れもした。
しかし、喜備はあのまま春龍と別れるのが、やけに忍びなかったのだ。
「私は文学部、英文学専攻です」
「帰国子女って、仰ってましたね。だからですか? 英文学」
ええ、と返事しながら、春龍は人で賑わう食堂を見回した。今は昼食時ではないが、それなりに人はいる。これがお昼時だと視界の七割を人が埋めるという。長蛇の列が出来てもう少しで食堂の棟から漏れ出てしまうこともあり、まだ大学生になって日が無いが、喜備は既に数回そんな現場を目撃したことがある。とにかく、人が集う場所なのだ。
「実は、私はあまりこちらの棟の食堂は利用したことはないのです」
するにしても、夜間ですねと眼鏡を押し上げた。
「まあ、それも稀です。でも一度、こちらのデザートコーナーなど、どんなものかと利用してみようと思って、たまたまこっちにやってきたんですよ。こんなに賑やかなものなのですね」
春龍が食堂を眺めるその様子はどこか祭や花火を遠くから見物している人のように思えた。二人のテーブルの近くを、お茶菓子を両手に抱えた若々しい女学生たちが談笑しながら通っていく。
「ああやって、お菓子を持ってきて一緒に勉強したり、喋ったりする子たちも、大勢いますからね」
「なら、私も紅茶を持ってくればよかったです」
「紅茶、ですか?」
はい、と嬉しそうに春龍は頷いた。
「私が一番長く滞在したのはイギリスなので、すっかり紅茶が好きになってしまって」
「へえ」
「でも、紅茶に合うお菓子はスコーンやクッキーですね」
ゼリーだとちょっとおかしいです、と春龍は喜備の方に桃ゼリーを寄せた。中央に置かれた桃色の寒天を今まで気にかけなかったが、そもそもこれを一緒に食べるつもりだったのだ。
「忘れてた! 春龍先輩お先にどうぞ」
「いいえ、先ほども申しましたが、レディファーストですよ」
どうぞ、と優しく言う春龍の眼差しも穏やかさに満ちたものだった。その人となりの良さや暖かさがじんわり伝わってくるような気がして、喜備は素直に一口目を食した。
まろやかな桃の味とゼリーの食感がたまらない。久しく何も口にしていなかった喜備の舌と口内に染み渡り、瑞々しく体に巡る。たちまち喜備自身が浄化されたようにも思えた。
「うーん、おいしいです」
「ええ、拝見しているこっちが幸せになれそうです」
「あ……すいません、私ばっかり!」
いいんですよ、とにこにこ笑う春龍もようやく一口目を口に運んだようだった。やはり品の良い笑顔で爽やかに美味しいですねと評する。それを目にしながら喜備は、春龍は確かに男性なのだが、どこか女性的な物腰もあるな、と感じていた。喜備に対してあくまで礼儀正しく接してくれるからそう感じたのかもしれない。
(何だか、男の人だって意識しちゃってる私が恥ずかしいなあ)
誘ったのも自分だし、と頬がやや赤らんでくるのがわかる。しかし、その優しい春龍の立ち居振る舞いや態度に惹かれているのは確かだろうなと、伏せていた目を戻し春龍を秘かに見つめた。食べながら、彼はまた何処かあさっての方向を見つめていた。
その眼差しは、どうしてかやけに孤独に見えた。
声をかけるのも、忘れたほど。
「……ああ、ごめんなさい。もうあと一口ですので、喜備さんがお召し上がりくださいな」
そう言って器を差し出す春龍の眼差しは、喜備にきちんと向けられていて暖かかった。
優しげだから、紳士的だからというだけで彼に惹かれているのだろうか、果たして本当にそれだけなのだろうかと、喜備は最後の桃ゼリーを嚥下しながらふと思った。