春龍はこの後授業があると言う。文学部や経済学部のある棟の方に通じる出入り口まで見送った。彼は最後まで人の良い笑顔を絶やすことはなく、喜備は特に何もしていないのに、何か仕事を為し終えた後のように快い気分になってしまった。
 きっと、彼の笑顔がそうさせてくれるのだろう。人の真心を直に表すのが笑顔や微笑というものなのだ。そしてそれに触れ合うと、相手も何だか気持ち良く暖かな心地になるのだろう。そう喜備は納得して後ろを振り向こうとした時、肩をぽんと叩かれた。

「きーびー?」

 聞き慣れた声だった。幹飛だ。でも何故か喜備は後ろをいつものように身軽に振り向けなかった。やけに幹飛の声が疑り深い音調だったのだ。何か嫌な予感がする。
「あ、あはは。幹飛、どうしたの?」
 しかしもとから彼女と美羽と亮と食事をする約束をしているのだ。大体彼女らとは友達なのだから、変な風に思わないでいいじゃない、と自分に言い聞かせながらも喜備は自分が苦笑いを浮かべていることをかなりはっきり意識していた。
 後ろには幹飛だけではなく、美羽、そして亮もいた。
「授業、早めに終わって、ちょうどそこで亮にも会ってね。それで、さっきからずっと、連絡してたのよ」
 三人の中で一番大人びた雰囲気を持つ美羽は、喜備と同じように苦笑して右手に持った携帯電話をついと挙げた。その声には幹飛のように喜備を非難する意図は込められていない。あっと思い急いで鞄の中の携帯電話を探ると、たしかに不在着信を知らせる青いイルミネーションが点滅している。

「ごめん、マナーモードにしたままだったみたい」
「まあ、これだけ賑やかだものね、食堂。気付かないのも無理ないわ」

 美羽はまるで喜備の実の姉のように笑う。結い上げた髪型や落ち着いた服装、均整の取れた体つきなど、童顔でわりと幼児体型の喜備にとっては憧れに近い。そんなことを思うのは、ひとえに幹飛と亮を意識しない為だろう。何だかやけに視線が痛いのである。

「じゃ、じゃあ行こっか。あはは、待たせてごめんね」
「ちょっと待て喜備」

 言葉を放つは亮、計を実行するように動くは幹飛。喜備の細い腕はがっしり掴まれた。この二人はいつの間にこんなに息が合うようになったのかな、とこういう緊張した時に限っていらないことを考えてしまうのは自分だけなのか、それとも人類に共通する特徴なのだろうか、喜備はちょっと考えた。

「誰よさっきのあの男子」
「俺達は見てたぜ、お前と奴がさしでテーブルに座っていたところを」
「まさか……あの人に、誘われたの?」

 美羽までも訝しげな目で喜備を見た。やはり彼女も喜備を妹のように想って心配しているのだろう。違う違うと喜備は頭を振った。

「私が誘ったの」

 桃ゼリーが一つしかないから、分け合おうと思って――と言うつもりが、三人は目を丸くし、めいめい驚きの声を上げて喜備の声を覆い隠した。まあ、無理もない、自分でも考えられない行動だと思ったくらいだから、と喜備はやはり苦笑した。しかしほのぼのとした苦笑では済まされない。

「逆ナン! 喜備が? あの純粋無垢で清らかな喜備がっ?」
「お前、いつからそんな不良に! やっぱ俺の所為なのか? なあ、なあ!」

 二人とも声が大きい、と美羽が思わず窘めたように主に騒いでいるのは幹飛と亮だった。確かに大きかったのですぐ傍を通る学生たちがこちらを見たり、逆ナンだってさ、とくすくす笑っていく学生達もいた。
 喜備は自分のしたことが世間的にどれだけひやかされることか身をもって知りつつある。もうここから逃げ出したい気分でもあった。うう、と美羽の肩に真っ赤な顔を埋めてしまう。美羽は背が高いので、背が低い喜備には肩が大体顔ぐらいの位置にあるのだ。昔から疲れたり嬉しくなった時はよくこうして顔を埋めてきたが、こんな事情でこの行為を反復することがあろうとは、さすがの美羽も思わなかっただろう。

「ちょっと! 気をつけなさいよ喜備! いくら優しそうに見える人でも、男ってのはケダモノ、オオカミなんだからね!」
「そう、そうだぜ喜備」

 わかった? と鹿爪らしくお説教しようとした幹飛を押しやって、喜備をきつく睨むように見上げたのは亮だった。いつもの利発で涼しい目元がどうしてか途端に子供っぽい怒りに様変わりしているので喜備は小首を傾げた。

「男は概してそんなもんなんだぜ。草食動物は実際はものすごく獰猛だし性欲だって盛んなんだ。まあそれは例えだけど、甘く見てたら絶対泣きを見るぜ! 
 自分から優しくする必要なんて絶対ねーんだからな! 最終的に女が泣く、それが目に見えてる! いろいろ考えてけば、男にはちょっと手厳しいくらいがいいんだって!
 だから気をつけろよ! 喜備はお人よしだからなかなか実行できないだろうけど!」

 その要旨を辿れば、彼は怒ったり、非難するというより、むしろ喜備を心配していた。それでも喜備は頭を捻らざるを得ない。

「うん、二人とも心配してくれてるのはわかったけど……どうして亮君、そんなに必死になって言ってるの?」

 な、と亮はやや枯れた声を漏らし、若干後ずさったりもしたのだが、喜備には彼の真意は掴めずじまいだったようで、小さく髪を揺らした。皆を待たせてしまったから席を確保してくる、と美羽達から離れ、テーブルが並ぶところへ向かった。

 その背中は亮から見ればとても危うく頼りなげだった。おそらく亮の傍に立つ彼女の大事な友達もそう思っているだろう。亮は言葉を失いただ黙っていた。顔は最後に声を発してからずっとそのままだ。彼に満ち溢れていた自信というものがすっかり削げ落ちていると、彼を知る人は言うだろう。
「亮……哀れね、哀れ過ぎるわ」
「完全にアウトオブ眼中というものを私は今初めて見た」
 同情するわ、と美羽は彼の肩に手を置く。うう、と泣き声にも似た、聡明な彼らしくない声が漏れ聞こえた。だが彼は泣きはしなかった。

「まあ年の差ありすぎだし」
「友達っていう関係の方が何かとラクよー? 今はじゃんじゃん甘えちゃえば?」
「うるせえやい!」

 亮は泣きそうになる己を戒める為頬を抓った。

 大事な友達である喜備を色恋沙汰の目で見ていないと言ってしまえば少し嘘になるが、あまりに冷やかされるのはごめんだった。同じように彼女が誰か他の男に興味を持つことも亮は快く思わなかった。それだけ大事に彼女のことを想っているのだということだが、それが単に友達以上恋人未満の想いなのかそうでないのか、小学生以上の知能を持つ亮でもまだわからない。

 ただわかるのは、自分を受け入れてくれた喜備のことを好いている、たったそれだけだった。

 三人でテーブルを確保した喜備のもとへ向かう。喜備は人数分のお茶も汲んでいた。

(でもあの男、たとえ何する気でなかったにしても普通にむかつく)

 少し見ただけでも、やたらと亮の目蓋の裏にちらつくことが余計彼を腹立たせた。すらりと伸びた長身で、だが乱暴では無いあくまで穏やかな態度と身のこなし、男性的ないやらしさが全く感じられない微笑など、男性が女性をエスコートする上で身につけておきたい要素が全て備わっている気がして、ますます亮を苛立たせる。
 そんな自分の方はというと、どう転んでもまだ少年で、喜備の身長にも届かないし、不遜な態度を取る性格だと若干意識しているから、大人らしい余裕のある行動も残念ながら出来そうにない。喜備の前にいるだけで、どうしても甘えてしまう。これほど自分が子供であることを呪ったことはないだろう。結局は、単純なコンプレックスに帰着してしまった。

(いや、俺は俺で、やれることがある。あいつを出し抜く方法があるだろう)

 そこで亮は、少し前にあった出来事を思い出した。
 フェルトの鯉のぼり。はしゃぐ自分。その自分の失言で、どこかへ飛ばされる喜備。

 そして舞い降りた、幻としての喜備。

「亮君?」

 思った以上に深かった回想から一気に現実世界に引き戻される。喜備の声だった。思わず瞠目してしまう。鼓動が自分を縛るように、非常に緊張したもののように感じられるのはおそらく――もう一人の喜備を意識したからであろうか。汗も流れた気がした。
「大丈夫? 具合悪い?」
 覗き込んでくれる彼女の目は真っ直ぐで優しく暖かく、裏も暗さも悪印象のものは全く無い。だけど、深淵があるのだ。ほかでもない、亮自身が引き起こしてしまった忌まわしいが――そう一言で片付けるには、重すぎる存在が。

(その存在を知ること――つまり喜備を知ることは、誰かに任せることのできない、俺のなすべきことじゃないか?)

 何でもないと言えば、よかったと、そんなことで本当に心底救われたように笑う喜備の姿は亮にとっては何よりも眩しい。
 あの男を出し抜く出し抜けないは関係なく、彼女を救うために、彼女を本当に理解する為に、亮は自分が動くべきだとほとんど天啓のように感じた。


    5
続く
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