雲は白 リンゴは赤



 研究室付属のパソコンの画面からふと目を上げると、知らない間に研究室は随分賑やかになっていた。
 腕時計を見ると、なるほどもうすぐ三限目の講義が始まる。資料やら何やらを持ち出している学生が多いので、発表系の授業だろうと踏んだ。となると、パソコンを使う用事もあったかもしれない。知らない内に占領していたのではという不安が生まれて、誰に対してでもないが申し訳ない気持ちになった。
 それとも、と彼は目を伏せる。まだ、自分に対して声をかけづらいのだろうか。年齢的には一つしか違わないが、それでも同級生と比べるとどうしても大人びて見える。丁寧な喋り口調がもう普通になっているから、先輩や院生と思われることもしばしばある。欧州の雰囲気はすっかり自分を、日本に流れる時間から切り離してしまった。無理もない。物心ついた時から、自分にとってはこの国こそが異国だった。
 そんな肥しにもならない思惟をしている場合ではない。もうパソコンでの作業は片付いてしまったから、さっさと出ていった方が後から来る人の為だ。彼は研究室を離れようとした。
「あ、薄雲も昼飯?」
「何か買ってきて一緒に食おうぜー」
 振り返ると同級生の男子学生が三人ほど購買から買ってきたパンを片手に、にこにこと笑っている。まだ中学生くらい子供に見えそうな、無邪気な笑顔だ。それで自然と彼は微笑む。

「すみませんが、もうお昼はいただいてしまいました」

 そっかと彼らはさほど残念そうでない顔を見せた。また今度な、と彼と男子学生達はそこで別れた。賑やかだった研究室の人口は大分減って、逆に緊張してしまうような静けさが降りそうだったが、それでも彼らは楽しそうだった。
 少し重い灰色の扉を閉じて、彼は一人、午後の光の射す廊下に取り残される。突き当りにそれぞれベランダがあって、そこから漏れる光だけが足元を照らしていた。まだ初夏の頃合で、射しこむ光にあたって無言で伸びる廊下でさえも爽やかな暖かさがある。これが梅雨になったら、一気に廊下は暗くなり、冷たくなり、また、空気が重くなる。
 彼らには、きっと自分に対して壁が無いのだろう。白亜に似た壁に手をつけ、目を伏せながら彼は思った。壁はひんやりとしている。手を離し、どこへ行くともなく歩き出すが、考え出したことも同時に進みだす。


 ここにいる人達は、自分に壁など作らない。むしろ、誰よりも壁を作っているのは、そんなことを思っている自分自身だ。紳士的な態度で優しくして下手に出て、なのに本当は疑っている。
 本当は冷たい目で見ている。本当は、怯えている。そうして今まで生きてきたから、などという理由は言い訳以前の問題だ。とんだ偽善者が世の中にいたものである。
 ベランダまで歩いて、何をするでもなくガラス戸に手をつけた。空を見上げると、気持ち良さそうに白い雲が浮かんでる。のろのろと流れに任せるように空を進んでいた。

 ふと、少年の頃に空を見上げたことを思い出す。何歳の頃だっただろう。学校帰りだったか、チェロの練習後だったか、とにかくまだ幼い自分には広すぎて視界にとらえきれない程の空を見上げていた。そこでも、雲は変わらずゆったり進んでいた。

 こんな自分はどこに行くのだろう。現在の彼が、どこともしれない雲の行方を見ながらそう思った。考えてみれば少年の頃も似たようなことを思っていたかもしれない。定まった場所を持っていなかった少年の自分と、ようやく落ち着けた居場所にやはりどこか齟齬を感じる現在の自分が、時を超えて静かに同調していた。――少年の頃と違うのは、様々な自分を心に隠し持つことと、打算をしていることや、冷やかな目を送っていることに対する罪悪感もそこに加わっていることだろう。まるで、重石のように。

 雲は進むにつれて次第に形を変えていく。色さえも時には変わる。新鮮な綿の白から、薄汚れた布のような灰、煙を固めたような黒雲。

 この冷たい自分を誰かに暴かれたらどうしよう。不安は恐怖に似ている。空を見上げ続けてはいるが、彼の思考は変わらず暗かった。天候が落ち込む様子は無い。ただ彼だけが暗澹たる気持ちに沈んでいく。

 それでも彼が晴天の空を見上げ続けるのは、どこかに祈りがあるからだった。小さな願いがあるからだった。
 こんな自分を受け入れてくれる存在がいればいいと、広い世界を旅した彼はいつの頃からか思い続けていた。あるいは、祈らずにはいられなかった。

 入りこむ光は、微かなプリズムを見せる。彼の足元に七色の鋭い光が揺れた。



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