「来るって、何だよ、おいっ」
「誰か来るの!」
「どこから!」
「fから!」
 そうだ。美禰子も富子もここから現れた。fとFを繋ぐ唯一の出入り口というわけではないだろうけれど。
(もしかしてまた富子か?)
 突然のことで、それ以外考えられなかった。来たとしたら何だ? また迷惑をFに降り撒いていくのか? また美禰子に変ないちゃもんをつけるのか? また、美禰子が――空っぽの人形に変わってしまう?
(そんなの、嫌だ)
 一時的にだって、見たくない。
 俺は息をのみ頭を振る。。けれども事実は俺を置いて水面の上に、ある人物を召喚したのだった。少なくとも、見覚えのある人物ではない。
 女性だった。和服姿で、たすき掛けをしていて、その恰好から気前のいい姉御肌の女性ではないかと予想がつく。目は閉じていた。ショートヘアで、美禰子は軽いボブだけど、彼女は外に撥ねるくせっ髪を内側に少し巻いている、そんな髪型をしていた。肝心の顔は、と思うと彼女が目を開く。切れ長の目と勝気そうな曲線美を描く口元は、中国の絵画から抜け出してきた美人像そのものだった。
 富子ではない、美禰子でもない、麗しい大人の女性。
「那美姉!」
 美禰子がそう叫んで縁側まで駆け出た。美人は那美さんという人らしい。美人は頬を緩めて優雅に笑った。
「美禰子! 久しぶりねえ、元気だった?」
 ひらりと空中から地上へ降り立つその様は天女かと見紛う。それくらい美人なのだ。
「あんたがちっとも連絡よこさないから、うちの人が心配しちゃってさ」
「あはは、円覚寺さん相変わらずだ」
「幼女が好きなら、私と結婚しなけりゃいいのに、ねえ?」
「幼女って!」
 美禰子の逆鱗だ。私そこまで幼児体型じゃないもん! とむきになる様はとかく子供っぽかった。いや美禰子、お前がどう弁護しようとも体型は中学生みたいだし、それに普段から言動も子供っぽくて、図に乗ると見ていられない所も多少あるぞ、と二人に置いてきぼりにされた俺が傍観者気取りで思っていると、美禰子はくるりと可憐に振り返り、美人と俺を引き合わせた。
「三四郎、紹介するね。私のお姉さんの、円覚寺那美姉さん」
「ああ、君が三四郎くんね? どうも、美禰子がお世話になってます」
 姉の那美です、と丁寧に頭を下げて、俺もそれに倣う。気前が良さそうで姉御肌で、想像していたのは盗賊団の女首領や極道の姐さん、という偏見も甚だしいものだったが、どうもそうではないらしい。男子学生に意地悪して、愉快がるような人かとも思っていたけど、那美さんの浮かべる笑顔はさっぱりしていて品のいいものだった。悪人だなんて冗談でも思えない。
「こんな立派なお屋敷に御厄介になっちゃって、どっかの貴族よりいい生活してそうねえ美禰子」
 なんて失礼なこと言っちゃったわね、とけらけら笑う。全然気にならない。むしろ、なんだか褒められた気分。そうだよそうだよと生活を語りたげな美禰子に那美さんはふふと目を細める。
「この子うるさいでしょう? いつもいつも、ぎゃあぎゃあ騒いじゃってさあ」
「う……さっきまでは大人しくしてたもん。ちょっとは落ち着こうって思ってるもん」
 ねー? と首を傾げる美禰子。さっきまでの反省会のことだ。那美さんがその時来ていたらしょんぼりしてる美禰子には驚いただろうか。
「こんなこと言ってるけど、何でもかんでもずうずうしいんでしょ」
 那美さんの流し目はそれでも大分色気のあるもので思わず身を固くした。でも俺はこう答える。自然な流れだった。いえ、そんな、と首を掻く。
「いつも助けてもらってますし、楽しいです」
 それを聞いた那美さんは少し、その切れ長で賢そうな瞳を丸くさせ、微笑んだ。それは姉妹に向けるものでもあり、娘に向けるものでもある気がした。そうかい、と結ぶ声の音色も母性的である。
「あのね三四郎、那美姉はねー、温泉旅館の女将さんなんだよ」
「そうなのか。いや、いかにもそんな感じだなあとは思ってたけど」
「土産にほら、うちの饅頭、持って来てやったよ」
 と紙袋をひょいと見せる。円覚寺温泉と和風なロゴが入っている。さっきまで饅頭を食べていたところだけど貰えるものは大体嬉しくて二人してやったと喜んだ。仕事を抜け出してきていいんだろうか、と余計な心配をしたけど、那美さんの雰囲気から伺える、切り盛りの腕がよさそうな感じや頼りがいと人望のありそうなところから推測するに、きっと仕事場はうまくいっているのだろう。
「それから、あんたの好きなこれと、あれと、ええと、ほら、これとか……」
「わ! いいの、こんなに!」
「うちの人はあんたがお気に入りだからねえ」
 女将さんをやっているのだから当然旦那さんもいる。既婚者と言うことは最初の会話からもわかっていた。なるほど、夫がいるという女性的な重みがまた、彼女の魅力に一役買っているみたいだ。美禰子も同じなのにこの雰囲気の差はなんなんだ一体。
 立ち話もなんなので、座敷に上がる。無味乾燥な勉強部屋と化していた茶の間はあっという間に別の空間になる。京都や金沢のお座敷の風情に近い。目の前には見目麗しい和服美人がいるのだから。お茶淹れてくるねと美禰子はぱたぱた足音を鳴らして去っていった。少しの緊張が俺を包む。妙齢の女性がこの家にいるなんて初めてのことだ。美禰子は俺と同年代くらいだろうから。
「よかった。あの子全然、変わってなくて」
 緊張を解きほぐすかのような那美さんの微笑みが、美禰子のいた場に向けられている。
「Fに行くなんて、最初はどうなるかと思ってたけど、案外楽しそうね」
「はあ」
「こんなかっこいいボーイフレンドまでいて」
「ぼ、ぼおいふれんど?」
 今時あんまり使われない呼称に目を丸くする。ちょっと恥ずかしい。彼氏、ではないけど。美禰子が既婚者ってのは那美さんも知ってるはずで、つまりこれは一種のからかいだ。
「あら、そうじゃない。三四郎くんは結構ハンサムじゃないの」
 俺の様子にくすくす笑う。そうでしょうかと鼻頭を掻きながら問うと那美さんは艶やかにそうよと口角を上げた。返事をし兼ねてやっぱり鼻の痘痕の辺りを掻くことで気を紛らわせた。小さい頃の病気の所為で残ってしまったらしいその皮膚の染みは、顔を鏡で見る度いつも気になってしまう。遠目で見たらそばかすのように見える。容姿に自信が持てない理由の一つだ。まあなくなったところでさして格好いいとは思わないんだろうけど。
「あれが夏目坂さん? 噂の?」
 そんなことを思っている間に、那美さんはぬいぐるみにするようにストレイシープを引き寄せた。いつも眠っているあいつだ。寝顔を見てぷっと吹き出す。
「思えないわねえとても。これがあの真面目でお堅かったあの人? 冗談!」
「その、夏目坂さんのことは俺、勿論よく知らないですけど、美禰子が、もう、自分は間違えるはずがない! ってくらい頑固に決めつけてるんで」
 伴侶にしかわからないものがあるんだろう。それを聞いて那美さんはまた目を細める。
「おかしいねえ。ほんと、Fに来てもお熱ぶりが変わらないのも、おかしいもんさ」
 髪を掻く姿も絵になる女性だな、とぼんやり思った。
「さっきも言ったけど……いつもうるさくて、大変でしょう」
「まあ、それは、多少」
 ふっと、那美さんはその切れ長の目を伏せる。
「私らは、血は繋がっていないけど」
 美禰子の姉ということは、つまり彼女も孤児院の出身。今更それに気づき、悪いことを言わせているのではと罪の味が口腔に広がる。しかし別段彼女は顔に嫌悪の色を閃かせてはいなかった。当事者と傍観者、そういう違いなのだろう。
「でもまるで、本当の姉妹のように過ごしてきたんだよ。私は姉で、あの子は妹で。もう一人真ん中にいるんだけど、まああの子は姉って言うよりも友達に近く――いや、喧嘩ばっかりしてたような気もするけど、楽しくやってきたんだよ」
 池の方に目をやる那美さんの眼差しは遠く、口と共に過去を語る。
「素直にはしゃいで、笑って。ムードメーカーとはちょっと毛色が違う、何だろうね。美禰子の才みたいなもの」
 それでも見つめられる池は今の光を照り返している。
「それが、私は好きだったんだよ。勿論今もね」
 今も、世界を違えても美禰子がそうであることは、俺がよく知っている。多分、一番。
「俺も、好きですよ」
 それは疑似的な告白だった。いつか、こんな風に過去の想いを語る日がくるんだろうか。
「俺も、あいつのそういうところが好きで、助けてもらってます。本当です。一人暮らしがこんなことになるなんて、思ってもみなかったし」
「そうでしょうそうでしょう? Fには魔法がないんだってね。いきなりこんなことになっちゃうんだから、こりゃあびっくり仰天もいいところよ」
 三四郎君の気苦労も相当でしょう、と俺の意図をくんだのか、そうでないのか、那美さんは無邪気にけらけら笑った。それでもよかった。今、新緑の風が吹いて二人の間を通ったが、それと同じくらい心地よい。
「あ、びっくり仰天で、気苦労って言えば」
先日の巨大ストレイシープ事件を那美さんに語る。へえ、ほう、はあ、と那美さんはわかりやすい相槌をその都度その都度打ってくれ、とても話しやすい。
「美禰子が巨大化しなくてよかったよかったじゃないの」
「それは……確かにシャレにならないですね」
 話しやすい流れに乗って、俺の口はぽろりと疑問をこぼす。
「あいつの魔法……魔力とかって、元からものすごいんですか?」
 那美さんは少し眉を曲げ、何か考えるようにして、ううん、と首を振る。
「私も、下の妹も、一時期すごい魔力を持ってたと自負してる方なんだけどさ、美禰子にそんなものがあるってのは全然、研究所の人からも聞いたことないわね。こっちに来て、美禰子自身の魔法の質とか練度が上がってるだけじゃないかしら」
 だとしたら、美禰子が突然虚ろな表情になる現象もなかったのだろうか。でも美禰子にそんなことが起きてたなんて話したら、こりゃあいけない危険だ、と美禰子がfに連れ返されるかも知れない。美禰子のことを思えばその方がいいのかも知れないけど、俺はあの現象について口に出すのを単純に恐れていた。でも、言った方がいいんだろうか。せっかく、美禰子と富子以外のfの人に出会ったんだし。
 話を切り出しあぐねて俯き加減になり、ううん、と心中で唸っていた俺だったが、那美さんと向かい合って話をしていると言うことをすっかり失念していた。ごめんなさい黙っちゃって、と顔を上げた時だ。
 那美さんの方は口を開いていた。何かを言いさした、と言うべきであろう。そして俺を注視し始める。当の俺は、やっぱりこの女性は印象通り年下をからかうのが好きなのだろうかとしみじみ思っていたから、その視線や断絶した会話に気を向けるのが少し遅れた。
「似てる」
「え?」
 気持ちのいい風が、不意に止む。ぱちん、と一つ瞬きをしても、風は吹かない。

 今、何て言われた?

「遅くなってごっめーん!」
 耳の管から脳天へ突き飛ばす、突然の美禰子のハイトーンが見事、思考を奪った。追及の思考の糸は、鮮やかにふっつり切られてしまった。

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