「美禰子ただいま戻りましたっと。お茶っ葉がきれちゃっててさー。急いで買いに行ってきたの」
「あら、それでわざわざ? そこまでしなくても良かったのに」
 那美さんの妖艶な笑顔、美禰子の少し慌てた照れる顔、何事もなかったように再び吹く風。急に日常が戻ってきたから、何を言われたかも気にならなくなった。
「おもてなしは当然でしょー。って言うか、那美姉が連絡なしに押しかけてくるからだよ」
「押しかけなんて人聞きの悪い。よく言うよ。押しかけ女房みたいな真似してんのはあんたの方じゃないのよさ」
 私は三四郎の奥さんじゃないもん、と気安く言い返す様子も日常そのもので、俺は俺で女房と言う言葉と美禰子の対応の落差に切なさと苦みを感じたり、何の不都合もなかった。変なことが起こるとか、何か隠された秘密が暴かれるとか、そう言った予感も未来もない。多分新緑の爽やかな風が全部連れていってしまったんだろう。
(那美さんがいるから、いつもと違うってこともあるし)
 それでも緊張は大分ほぐれていた。美禰子のお姉さんと言うこともあって、艶やかに見える那美さんでもふとした時の笑顔は、美禰子に近い少女らしい明るさが見え隠れしていた。真ん中のお姉さんのことは知らないけれど、三人揃ったところは多分並みのアイドルなんか目じゃない。きっと。
「何だ、賑やかだなあ」
 さっきの妙なテンションは落ち着いたのか、普段の雰囲気に包まれた坊っちゃんの声が聞こえた。暢気な抑揚がついていて、初夏の午後に似つかわしい。
「ああ、美禰子のお姉さんがfから遊びに来てくれてるんだ」
 そうか、と呟きに近い声が聞こえ坊っちゃんはのっそりと姿を現した。廊下から座敷に入ろうと敷居を跨いだところだった。手にはお茶会を見越してか湯呑が握られていた。伏し目がちだった彼が顔をあげて、那美さんと目を合わせた時だ。
「あ」
 ぽろりと、坊っちゃんの中から歯が欠けたように音の欠片が転がり落ちる。全くの不意打ちだからこそ掬い取れる音素は、十分、動揺を感じ取れるに足るものだった。それとほぼ時を同じくして掌に吸いつくように懇意になっていた彼の湯呑が、ゆっくりその関係を解いて、いこうとする。
「危ないっ坊っちゃん!」
 美禰子がそれに気付いたお陰で、坊っちゃんはおっと、と湯呑を掴む。破損は免れた。
「もう、気をつけてよね。いくら那美姉が綺麗だからって油断して」
「美禰子、およしよそういうのは。本人は恥ずかしいんだから」
「またまたあ。那美姉は昔から結構自分の綺麗さ武器にしてるんだからーどんだけ男の人誑かせたんだろうねっ」
 私の目はごまかせないんだよーとあかんべえをする美禰子を傍目に俺は坊っちゃんの方も見る。ぱち、ぱちと瞬きをしていて、何が起こったのかよくわかっていない、そんなどこか呆然とした表情でぼうっと突っ立っている。坊っちゃんの性格からすると、ここはどんどん気安く二人の話に乗っていってもいいはずなのに、棒立ちなんて。坊だけに。なんてくだらない駄洒落をかましている場合じゃない。
「大体男の人を誑かしてたのは藤尾の方で、って、あらいやだ」
 しばらくやいのやいのと姉妹らしい口喧嘩をしていた那美さんはごめんなさいねと口を隠す。これにも坊っちゃんは瞬きを返すだけだ。
「美禰子の姉の円覚寺那美です。いつも妹がお世話になっています」
 那美さんは座ったまま優雅に礼をした。礼儀に則ったもので、無駄がなく美しい。一方の坊っちゃんは、湯呑を大切に持ったまま、やっぱり滑稽なほどその場に立ち尽くしているのだ。那美さんの挨拶が終わってから、慌てて一礼した。
(変なの)
 さっきの坊っちゃんのように俺も瞬きを一つ。風は勿論吹かない。
(こんな風に慌てたり、ぼうっとしたりする坊っちゃん、初めて見た)
 この家で初めての妙齢の女性登場だから? さっと脳裏に過るのは、もう忘れてしまいたいあの醜聞だった。火のない所に煙は立たないのなら、少なくとも女性関係で何かあった話になる。そして今の坊っちゃんはあまりに不自然過ぎる。
 その噂が俺の中で再び存在感を増しても、おかしくないくらいには。
(そんな、今更)
 そうだ。やっと新しい生活が始まったのに、またくだらないことで悩むのはいい加減ごめんだ。
(きっとあれだ。清さんとか美禰子とか、今まで坊っちゃんの年代と外れる女性しかいなくて、そこに急に那美さんが現れたから、さすがの坊っちゃんもちょっとびっくりしたってだけ)
 そう。そうだ。何せ男子校はプリズンとか何とかいうし。多分教師にとってもそうなんだ。誰が好き好んでガリ勉だったりスケベだったり根暗だったりする男子高校生達に囲まれて授業したいと思うだろうか。
 うん、と内心頷いて結論付けると俺の疑問はすごすごと言った調子で背後に回り、俺はテスト勉強もそこそこに、美禰子と那美さんと坊っちゃんでしばしの楽しい時間を何事もなく過ごした。那美さんが帰る頃には坊っちゃんはいつもの坊っちゃんの調子にもう戻っていて、軽口も叩くし冗談もぺらぺら出て那美さんと美禰子を大いに笑わせ、俺は俺でツッコミ役に回りっぱなしだったから苦笑しっぱなしだった。
 違和感を纏った坊っちゃんはもうすっかり過去のものだった。結局のところ、音声のノイズや映像の乱れくらいのもの、むしろそれよりもっと軽微な、何の記憶にも残らないような違和感でしかなかった。
 そう思いたかった。




 その日からだっただろうか。
 坊っちゃんの様子が、少しずつ変わり始めたのは。

   4
せんせいのまほう 10につづく

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