こうして、四人と一匹の生活が始まった。
 坊っちゃんの家は、老朽化が進み、吹けば飛ぶと噂されていた程近所で評判の家だったらしく、それが一夜にして潰えたことに近所の皆さんは驚き呆れほんの少しの恐怖を味わったのはまず間違いない。それでも、急になくなっても誰も違和感を起こしていないとか。それにしても坊っちゃんはこんな所でも噂されていたのかと思うと、やっぱり不謹慎だが苦笑してしまう。
 坊っちゃんは、兄貴のものだからいいだろうと案外けろりとしていた。新生活が始まってもその調子だ。
「もともとは売りに出すつもりだったらしいし」
 新聞を広げながら軽く言う。あの広い空地もどうやら坊っちゃんの家の不動産か何かだったという。税金とか土地とか相続とか難しいことはよく知らん、と坊っちゃんはこぼしていた。
「駐車場か何かにするつもりだったところを無理やり借りてたんだ。解体業者呼ぶ手間が省けて感謝して欲しいくらいだな」
 ちょっと傲慢な口振りと上座で大きく新聞を広げる姿を見ると一家の長にも見える。浴衣姿だから昭和時代の頑固親父みたいだ。
「よく言えるよねー末っ子なのに」
「末っ子だからこそだろ」
 お前だってそうじゃなかったか? とんとん、と煙草の箱を叩く。
「子供の頃から親譲りの無鉄砲でよく迷惑かけてきた。だがな、兄貴達も親父も、今更一つや二つの面倒事に目くじらを立てるような奴じゃあない、と思う」
「いや、むしろ大人になった今だから目くじら立ててくるんじゃね?」
「今のところ苦情は届いてないぜ」
 ただしめちゃくちゃ渋い顔をされたけどな。やんちゃだった子供時代を誇るように胸を張りつつそう言った坊っちゃんが、やけに子供くさい。威張って言うことでもないだろう。清さんはお茶を汲みながら隣でにこにこして、子供の頃と言えばそういえばあんなことも、こんなこともありましたっけねえと坊っちゃんの少年時代の輝かしい武勇伝を遠慮なく語って幸せそうだ。坊っちゃんは途中からきまり悪そうに目線をあちこちに飛ばしていて、やっぱり可笑しかった。




 坊っちゃんと清さんと言う新たな住人がいるということに慣れ、清さんの美味しいご馳走に感じる幸せを噛みしめる日々が日常になりつつある頃には、坊っちゃんに関する噂、例の醜聞も随分と下火になってきた。人の噂は七十五日と昔から言うけど、流行り廃りに敏感な若者ってこともあるし、もしかすると俺と坊っちゃんの教室でのやり取りがきっかけになったのかも知れない。でも、どの理由よりも有力な理由に一つ心当たりがある。
 学校では教師が中間テストについて口にすることが増えてきた。教科書にマーカーを引き出し、問題集を紐解く姿がちらほら見かけられる。たかが学校の中間テストだが、いい点を出し教師に見初められれば、難しい受験を避けられる推薦の可能性を広げることになるから馬鹿にならない。俺も成績が悪いと家から何を言われるかわかったものじゃない。目指せ成績上位と欲張ることはしないけど、せめて良い点だと誰もが思うくらいではありたい。
 しかし、坊っちゃんと暮らし始めてわかったことが一つある。
「おい、勉強しないのか」
 教師が家にいると殊更勉強について口を出される、と言うことだ、
 大型連休も終わって、気持ちのいい初夏を感じさせる土曜日。週明けから始まる怒涛のテストの日々に向けて、俺は縁側の池の見える居間で軽く勉強をしていた。してるじゃん、と問題集をつっつくが、それは英語の問題集だった。どうも数学教師であらせられる坊っちゃんは、自分の担当している数学をやって欲しいようだ。
「駄目じゃないか。理系もやらんと」
「んー数学は後半の方だからさあ。日程の」
「英語の次にやれ次に」
 坊っちゃんはいつもより饒舌で少し気分が高揚しているらしい。真昼間だってのに酒でも飲んだか、変なものでも食べたのか。正直うざい。
「それに次にやるのは国語だから」
「ふん。どうせ芥川だろう」
「そうだよ、羅生門。それと」
「そうかそうか。ああ、見える。俺には見えるぞー。理系のテストが押し並べて散々な結果に終わり、どうにもならないことをどうにかしようとして羅生門の下で雨やみを待っている三四郎の姿があ!」
「どこの下人だ」
 どうせ仕事が溜まって上手くいかないか何かだろう。くだらない、放っておこうと決めた。坊っちゃんはにやにやと笑いを深めながら、俺の家を壊したのは誰だったかなと嘯いてくる。子供がそんなこと気にするなとか何とか言ってたくせに、たまにこうやってこれ見よがしにからかって罪悪感を刺激してくるので面倒くさいこと極まりないったらない。
「美禰子じゃん。直接的な犯人はさ」
 そう答えたものの美禰子を悪役にするのはあまりいい気分ではなかった。その所為かペンがのらなくなってきたので、英語の問題集や教科書は片づけてしまう。坊っちゃんは俺をからかうことに満足したのか居間から出て行って、かわりに入ってきたのが鼻歌を歌う妙に上機嫌な美禰子だった。
「勉強頑張ってるー?」
「今さっき教師に邪魔されました、って感じ」
 大きく伸びをする。よく見ると美禰子は盆の上に湯のみを二つ、饅頭を四つほど載せていた。休憩しようよ、と盆を少し上げる。
 饅頭を頬張る傍らで美禰子は英語の教科書をぱらぱら捲っていた。読めるんだろうか。そういえば、と饅頭を一口しつつ思い出す。
「何で美禰子って英語が出来るんだ? ほら、最初に会った時、答えを見ずに言ってたじゃん」
「あれ? 言わなかった? 健三さん、英語の先生なんだ」
 ああそういうことか。頷きつつ茶を啜る。妻の美禰子もそれで少し英語の知識があるってことか。それでも高校初級の英語問題を初見で解くくらいだから、少しって程じゃないか。
「他のことは、からっきしなんだけどね。健三さん」
 照れて首を掻く。そんな美禰子を見るのもまた面白い。俺は自然と目を細めていた。
 初夏の陽光に時間はゆっくり穏やかに流れていた。気温もぽかぽかとして暖かい。ワガハイはどこかで昼寝しているか、猫の集会に行って、猫達とやはりお昼寝大会をしているかも知れない。
 目に映る庭の新緑が眩しいけれど、時折美禰子を覗き見るとその表情は微妙だった。明暗で言うと暗に近い。
(まだ気にしてるんだな)
 さっき坊っちゃんに直接的な犯人は美禰子だと冗談のように返したのを思い出して胸がちくりとする。俺達の前では明るく振る舞っていても、見えていないところで俺よりずっと重い罪悪感と、魔法を使う責任感と危険性、その重圧に落ち込んでいるのかも知れない。いや、きっとそうなんだ。
 反省するのは悪いことじゃない。けれど、美禰子には、馬鹿みたいに笑っていて欲しい。
 今の美禰子を見て思い出すのは、そう遠くない昔。一つ残されたストレイシープと、抜けがらの美禰子が向かい合った姿は、思い出せば、いつだって、奇妙な騙し絵のトリックに気付いたような不安感を、俺に抱かせる。
 そして浮かんでくる、もう一つの感情。
「気にすんなよ」
 怖い、ということ。
「え……?」
 膨らませたシャボン玉が突然弾けてしまったような表情で俺の方を向く。
「考えてもみろよ。第一魔法だぜ」
 瞬きする美禰子だけど、何について言っているのかはわかっているようだ。やっぱり、ずっとそのことを考えていたんだ。
「物理法則捻じ曲げるような代物だぜ。特撮映画やハリウッド映画もびっくりなことくらい、あっても当然だよ。不思議じゃねえ」
 魔法そのものが不思議なんだけど。あの夜のことは何度映画のようだと思ったか知れない。
「って言うか」
 はあ、と茶を一つ啜って溜息。
「そうやって落ち込んでる美禰子って何か調子狂う」
「なっ!」
 お前には笑っていて欲しい。威嚇する猫みたく肩をいからせる美禰子だけど、言葉の裏にある意味を読み取ってくれただろうか。
「だって勝手に人んちの敷地に入り込んで夜中に猫とトークかましてたりちゃっかり居候になったりしてるくらいだから、人んち壊してもあははごめんねーなんて笑ってるくらいのお気楽な性格だと」
「なっ、なによう! こう見えて私だって繊細なのっ! せ・ん・さ・い!」
 さすがに俺も盛り過ぎたとは思うけど、きゃあきゃあ喚く美禰子はそれほどショックだとは思っていないようだ。むしろ、何かを吹っ切ったよう。
「そんなこと言う三四郎くんは、お饅頭いっこぼっしゅーとしちゃうかんね!」
「あっ! 何すんだよ残しておいたのにーっ」
 しかも饅頭じゃなくて豆大福だ。近所の和菓子屋さんの看板商品で清さんがよく買ってきてくれる。美味しくて一家全員ファンになっているのだ。ふひひん、と口元に餡子を付けた頬張る美禰子はみっともないが、満開の笑顔になっている。俺も、鼻から息を抜く。
「よかった笑って」
「え?」
「すっきりしたろ。笑ってさ」
 餡子ついてる、と口元を指す。しかし美禰子は餡子を取ることなく、瞬きをして、ちょっと間を置いてから微笑んだ。
「あり、がと」
 返事の代わりに微笑んだ。やっと餡子を取って舐めた美禰子は、もう一度笑った。甘い、と照れたように。
「よっし」
 甘い饅頭の後は苦いお茶を一杯と相場が決まっている。湯呑を一杯空にして美禰子の言うことは。
「じゃあ、今後は家宅破壊をすることなく、周りの状況に気をつけて、事故のないようストレイシープ収集に励むことにいたすであります!」
 びしっ! と、テレビで見たんだろう敬礼をして見せた。キマった、と自信満々だ。
「それなあ、思ったんだけどさ」
 あの時、数えきれないほどのストレイシープがいた。あれが集まって一匹になって、それを捕まえたとなると、大分沢山捕まえられたということになるんじゃないだろうか。
「もう残り少なかったりするんじゃねえの」
 そうなると美禰子とはもうお別れか。気付いていないわけじゃなかったけれど寂しいものだ。けれど美禰子はそれがね、と肩を落とす。
「あれね、どうも一匹だったらしいの」
 両肘をついて溜息と共に頬を包む。ええ? と俺は目を丸くした。
「分散と巨大化の魔法を持ってた子だったらしくって」
「つまり……あの沢山いた羊は全部一個体だったってことか」
 美禰子を意味ありげに見つめていたあの羊が本体だったんだろうか。あいつを捕まえてたら被害も何もなかったかも知れない。でもその時点で見抜けって言うのも難しい話だ。
「坊っちゃんには黙ってようね」
「だな」
 顔を寄せ合いうんうん頷く。苦々しい秘密の共有だ。何を言われたものかわからない。
 しばらくゆっくり茶を飲んだり、饅頭を食べる。そこそこ空腹も満たされたし勉強を再開した。美禰子は頬杖をついてはあ、とぽかぽか陽気満ちる外を眺めている。俺が最初に美禰子を見つけた池が見えている。
「それにしても気持ちのいい土曜日の午後だよねえ。勉強やめてお昼寝したくなんない?」
「俺は猫じゃねえから遠慮しとく。勤勉なコーコーセーですんで」
 真面目だー、と美禰子は濃い赤茶色の木製テーブルにべたあ、と上体を倒した。気持ちいいのは同意だけどなと返した途端爽やかな風が吹く。こんな時期にテストをやるなんて、罪作りな教育だ。
 うつ伏せに眠るように左頬を潰していた美禰子が突然、身を起こす。
「ん? どうした」
「……来る」
 来る? 聞き返そうとしたまさにその時だった。庭の池が急に輝きだす。日光を照り返しているとかそういうレベルではない。自ら光を放っていて、俺が目を向けるとより一層輝きを増した。

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