時刻は四時を回ったところであろうか。夏ならばもう東の空が白んでいてもおかしくない頃だが、季節はまだ桜も咲いていない弥生の末近く。春の始まりにも満たない時候だ。夜明けはまだだから、たんとお眠りなさいと空が慈母のように諭す。春は曙と言うが春眠暁を覚えずとも言う。人間でもそうなのだ。いわんや猫をや。
 そんなことを、吾輩は魔力が暴れ狂うた庭に独り佇みながら思うておる。髭の先が春の小夜風に揺れ、体毛も穏やかに靡いていく。気持ちが良くて、吾輩は目を細めた。このまま眠ってしまうかもわからないが、まだまだ、夜行性の猫にとっては昼のようなものだ。春が眠る季節でも、今眠りにつくのは人間ども。この屋敷の住人の、あの少年のように。

 十年ぶりか、それ以上かぶりの再会を果たした三四郎は、連日の疲れがどっと出たのであろう。美禰子の入居を決めた吾輩にああだこうだ煩く言っていたものの、猛烈な眠気を催したと見てすごすごと寝床へ引っ込んでいった。布団を被ってきっと数秒もしない内に寝入ってしまったのだろう。幼い頃と変わらない寝顔でぐうすかと満足そうな寝息を立てていた。
 だが奴の疲れの殆どは魔力の行使から来ているものと見て間違いあるまい。昼に魔法を否定すらしていた奴が夜、偶然魔法を使える力を得てしまった。にわかには信じがたい話であるが現実である。いやはや、この世は猫の目よりも変化に忙しい。戦前も戦時中も戦後の復興期も、今日より穏やかだったはずだ。

 三四郎が吾輩と出逢うたこと。三四郎が美禰子と出逢うたこと。
 三四郎が魔法を見たこと。そして――予期せぬ来訪者が現れたこと。
 無数の羊に分裂した夏目坂健三のこと。
 三四郎が魔法を偶発的に得てしまったこと。

 そして。吾輩は目を開く。吾輩の目は燻った金色をしているが、そんな金色など捻り潰されるだろうものが、ここで爆発した。ついさっきの話である。放たれた強大な金の魔力は――否、強大なとは生ぬるい。冒涜的なまでに他の存在を圧倒する、計り知れない、名状しがたき黄金は、あのあどけない少女、美禰子の持つ魔力だったらしい。これもまた、にわかには信じがたい話だ。聞くだけでも、当事者でなくとも疲れを感じるかもわからない。せめて、はあと驚き呆れるか、やれやれと肩を竦めるくらいはするかもしれない。主に、さっぱり意味がわからないという態で。
 吾輩もそんな気持ちである。やれやれ。久しく使っていない魔法をいろいろ使った所為で正直結構疲れているのである。ふうと息をつけば、微かに髭の先が揺れた。

 そう。やれやれ、だとか、全体変な話ですなとか、かつての住人達がもしここにいれば、そう話しては取り留めのないことを延々と話し続けていたかもしれない。

 だがそんなもしもは、無い。今は今なのだ。

 吾輩は魔法使いだ。そう言ったはいいものの、魔力など、一応定期的に虫干しのように魔法を使ってはおることはおったが、今日のように全力で、例えば近所の迷惑にならぬよう結界を張ったりするなど、そんな風に使うことなど随分となかった。ここのところは殆ど、ただの猫と変わらなかった。
 ここのところ? 嘘をつくでない。もう数十年も、いいや下手をすれば百年に届くくらい、吾輩は普通の猫であったではないか。
 そう、ただの猫として猫達と会話をしたり、近所の猫の会合に出たり、縄張りを見て回ったり、様々な人間の家を訪問し、晩飯や晩酌の相伴に預かったり、人間達の営みを見てきたりした。実際のところ、三四郎と言う少年の存在も忘れかけていた節さえある。
 それほど、吾輩の時間は止まっていたのだ。
 無名の猫そのものだった。実際吾輩は確固たる固有名を持たない。そんなものなど必要なかったし、かつての住人達からもつけられなかった。吾輩は奴らにとってはその程度の存在だったのだ。別にそのことを不満に思っているわけではない。むしろ、あやつららしい、と苦笑を浮かべ昔を偲べるくらいなのだ。そのことを思えば吾輩は生涯無名の猫で終わるつもりだったとさえ言える。
 吾輩の、ワガハイと言う名。

 ――じゃあ自分のことは何て言ってるの?
 ――吾輩。
 ――なら、ワガハイでいいんじゃない?

 つい最近、そんな風に美禰子によってはっきりと名付けられたものだ。三四郎の祖父は偶然吾輩の一人称を呼んだだけであって、名付けてなどおらぬ。
 ともあれ名付けられることで新たに動き出すものもあろう。かつて動いていたものの記憶を辿るようにして。
 誰も知らない記憶だ。誰にも語られることのない記憶だ。吾輩だけが知るものだ。ずっとずっと昔のこと、この屋敷が牛込のものでなかった頃に土地に記憶された景色だ。景色。否、そんな大層なものでもない。歴史などと言う大仰なものでも勿論ない。誰もが忘れ、誰もが気に留めないような、そんな他愛もない時間だ。何が目的でもなく、ただ喋る為か、何の為に集まっていたのかもわからない。ただ五人が集まり、ただ喋り、答えもなくそれぞれ帰宅してはまた集まって、また意味のない会話を楽しむ。

 意味が無いのに。答えも無いのに。
 だけども、妙に楽しかった。吾輩は、愉快だった。
 好きな、時間だった。
 今日はほんの少しだけ、それを思い出させた。三四郎と言う忘れかけた存在との出逢い、美禰子の来訪、二人の年若き者の、それこそそう――他愛のない時間。
 柄にもなく、嬉しくなった。楽しくなった。またこんな時間があればいいと、望んでしまった。

 だから柄にでもないことをしてしまったのだろう。
 それは、提案。
 美禰子に、ここにこないかと。

 だてに百年程度生きてはおらぬ。人間の情の機微を察することなど最早朝飯前である。三四郎が、既に亭主を持つあの少女に恋心を抱き始めていることくらい早々に気付いている。ひょっとすると三四郎が好意を自覚するより前に気付いたのかもしれない。
 人の恋。これほど面白いものはあるまい。三角関係を意図して作り上げるなど、猫のくせに人間よりも趣味の悪いことをとも思うが、猫である前に吾輩は魔法使いである。それに――少しは興味があるのである。恋と言うものに。
 吾輩のあの時間がなくなってしまったそもそものきっかけは、おそらく、それにあるのだから。

 ――僕、実は今度、郷里の人と結婚することになったんです。

 暢気な、人の良さそうな声。今もそこにいるのではないかと思わせるが、もうここにはいない。この世にもいない。
 ここにいるのは吾輩だけだ。
 いや、今は三四郎がいる。美禰子もその内やってくる。吾輩は一人――否、一匹ではなくなる。それこそ何年ぶりにだろう。三四郎の祖父が没してから数えるのではない。かつての主人を含むあやつらがいなくなってから、だ。きっと、百年かそれくらいぶり。

 吾輩はあれからずっと、本当の意味では独りだった。少なくともそうだと言えてしまうに足る寂しさが、吾輩を巣食うていた。一度は、死を望んだくらいに。
 しかし吾輩は運がいいのか悪いのか、生を得てしまった。得てから、だが、何をしていたでもない。精々この聖地を守っていたくらいだ。

 それでは独り何をしていたと問われれば、どうだろう。
 独りここで、朽ちていく時をただ待っていたと答えるのだろう。
 あの頃の思い出を食い潰しながら、いつしか時を忘れて、ただの猫になったように。
 そうして莫大なまでの寂しささえ、ついに忘れてしまった。

 だが吾輩は、確かに寂しかったのだ。
 一人でいたくないと、鳴いていたのだろう。
 主人たる教師が、美学者が、理学者が、詩人が、哲学者が戻って来てくれることを、吾輩はどこかで祈っていたのだろう。

 そうだ。吾輩は雨に濡れたこの薄暗いじめじめとしたところできっとミャーミャー鳴いていたのだろう。寂しいと。独りにしないでくれと。誰か来てくれと。そんな風に、母猫からはぐれた仔猫の如く。
 突然やってきた美禰子も、確かそんな風に言っていた。あの忌まわしき研究所に夫が勤めているとは言っていたし、研究所からここのことを知ったと言うが、使いではないと。個人的な興味でここに来たといっていた。その燻った黄金の目に嘘はなかった。――そうだ。吾輩と似た目をしているのだ、あの娘は。

 そして吾輩のように、寂しさを感じていたらしい。
 亭主のいる身で? 亭主を愛しているのに?
 その寂しさの正体は何なのか。わからない。

 けれども。

「君は、寂しいんだよね」

 吾輩の茫洋としていた心の様子を一言でぴたりと言い当てた。
 それはまるで一つの魔法であるかのように。

 わかるよ、と呟いた彼女が浮かべた苦笑は深く憂愁を含むもので、その容姿に似合わない。だが似合わなくとも、それを浮かべるだけの歴史が少女にはあるのだ。しかしそれは、吾輩の未だ知らないものである。

「君の鳴き声が、こっちに届いてた」

 寂しいんだよね。その一言は確かに魔法であったのかもしれない。精神に干渉して感情を規定するきわめて高度で卑劣な魔法。だがしかし美禰子にそんな力はない。美禰子は常にただの美禰子であった。魔法使いでもただの少女であった。吾輩はそれを最初から理解していた。
 勝手な言い分を、吾輩は別に寂しくなどないわ小娘と、言い返すことも出来たであろう。
 だがそうしなかったのは、畢竟それが真実であったからだろう。

「みゃーみゃー、鳴いてたんだよ、自分でも気づかなかったかな?」

 そう、そうなのだ。図星を突かれたねと、美学者のあの男なら笑うだろう。主人が吾輩の立場だったら、気難しい顔を更に渋くして、何やらごねごねと言うのだろう。
「明るく見える人でも、気難しく見える人でも、底の方では寂しい音がするって、健三さんが言ってた」
 からっぽの音。
 娘はどこか沈んだ調子でぽつりと呟く。
「君は、きっと、私と同じ」
 浮かべた笑みも、どこか寂しい。

「からっぽ……なんだよね」

 からっぽ、などではない。吾輩にはここで暮らした記憶がある。あやつらと――太平の逸民どもと過ごした時間が。だがしかし、本人よりも何も知らない第三者の方が物事の真理をつくこともある。
 吾輩は確かにその時感じた。思い出した。吾輩が気付かぬ内に積み重ねていた寂しさの存在を。
 そして止まっていた時間が動き出しそうな予感を。

 そして、そして、さほど時を置くことなくして、三四郎と美禰子は出会った。
 時間はようやく、動き出すのであろう。
 この止まった廃屋の星霜が、解かれていく。

 そのことを、お前は喜ぶか? 生死すらもはやわからぬが、吾輩と同じく誰よりもあの時間を愛していたお前よ。

 吾輩と共にここで過ごした思い出を持つ者よ。
 のう――








 吾輩は奴の名を呼ばずにただ、鳴いた。人を寄せ付けず、空っぽで、それでいて人恋しくて寂しい、まことに頼りない響きだった。それこそがあいつの名であるかのようだった。
 無理もあるまい。あいつは常に、そんな奴だったからだろう。



第一章 はじまりのまほう(了)

  3
第二章 せんせいのまほうにつづく
ワガマホトップ
小説トップ

inserted by FC2 system