金色が閉じられた視界の闇を奪っていく。がんがん、がんがんと頭の中で鳴り響く。光であるはずのそれは視覚の次元を超えて聴覚にまで支配の触手を伸ばしたのだ。ああ、五感の全てが奪われるのも時間の問題か?

 奪う?
 奪うの? 私の何を?
 あんたはこれ以上何を奪うっていうの?
 何にも持っていない私から、あんたから奪うはずの私から、何を!

 喜久井富子であるところの、鼻が少々不細工な少女はそう声もなく激高する。この金色が顕現する前にしていたように精一杯の虚勢を張る。持たざる者たる自分が出来るのは所詮そんな程度のはったりだ。少女はそんな風に己をよく理解していた。
 そこに恐れはない。

 ただ怒りと、憎しみと、羨望だけがあった。







 違和感を察し富子は、視界を開いた。
 へたりと膝をつき、腰を落としているここはどこだ。
「ここ……」
 研究所、と呟いて己の位置を確認した。研究所のどこと問えば、自室も同然な富子専用の研究室だった。研究所を擁する喜久井の一族にして魔法研究の最先端をゆかんとする才女富子嬢に与えられたそこは、普段は地下に追いやられてしまうしがない底辺の研究者とは違い、一個人が普通に過ごすにも余るほどの大きさの部屋を与えられている。空調も日当たりも静けさも、全てにおいて快適な場所だ。五体満足だからこそそう感じられる。
 富子は手を動かす。足があることを確認する。顔に触れる。胸に手を当てる。微かな鼓動、けれども確かに感じていた。
 生きている。
 あの暴力的な魔力の氾濫の中で、生きて帰ってこれた。
「災難でしたね」
 ただ生きている、それだけではない跳ね上がった鼓動を、富子は掌に捕まえてしまった。大仰に、体も震えてしまう。
 振り向けばそこにいるのは一人の男だ。
 ぼさぼさの、灰毛と黒毛の混じった妙な髪。眼鏡が申し訳なさそうにずれているのは気のせいだろうか。青年とも思えず、かといって壮年とも思えない年齢不詳の彼が浮かべるのは苦笑以外の何物でもない。情けない笑みとも思えた。彼は何か湯気たつものを携えている。
「多々良、さん」
 たたら。下の名前なのか、上の名前なのか、富子はいまだ知らない。
「笑わないでくれますこと!」
 頬の紅潮を感じる前に、厳しく言い放った。同情なんかいりませんわとさながら車がエンジンを吹かすような勢いで言ってのけ、ぴゅんと立ち上がる。多々良には背を向けたままだ。
 向けられない。紅潮した顔など。
 彼がここへ自分を帰還させたのだろう。そのことは感謝する。だがその感謝の気持ちはどう捻れてしまったのか、ふんと高飛車な鼻の鳴らしにしかならない。全てやけくそですわ。富子はそう分析する。
 あの苦笑がどうして出てきたか。
 決まっている。富子が散々晒したFでの醜態を――ヒステリックに騒ぎ立てる無力な女子の様子の一部始終を見ていたからだろう。
 故に、向けられない。こんな紅潮した顔など、あんな醜態など、全て全て、屈辱でしかない。
 第一、密かに想いを寄せる男にあんなところを見られて、喜ぶ阿呆がどこにいるのだ?
 でも美禰子なら、ひょっとすると喜んだりするかもしれない。どんな姿を晒しても恥ずかしくないほど全力で愛する者と、既に契りを交わした彼女なら。
 美禰子。
 意識の上に乗せることすら厭わしい。
 名前を想像するだけでも苛立つ。
「お疲れさまでした、お嬢様」
 あくまで優しい多々良の声にだって、容易く、そうなってしまう。美禰子が関係しているだけで。
「お嬢様って言わないでくれますこと!」
「それは失礼しました」
 富子さん、とちょっとおどけたように目を丸くしてからふ、と彼は微笑んだ。見境もなく怒りに走りそうな己は、これもまた容易く慰撫される。
「コーヒー、お淹れしましたので」
 手にしたカップを軽く持ち上げて見せ、テーブルの方へと赴いた。普段からにやけた顔の多い多々良だが、よく見てみるとその笑みの質は普段とは微妙に違うように見えた。立ち上がりながらそう思う富子は、すぐに理由を察した。そうしてまた、怒りがこみ上げる。今日の感情の変わり具合と言ったら、止まることを忘れた激しい振り子のようだ。
「しかし、さっそくあれだけの魔力が爆発的に発動するとは。
 プラスの方向にとんでもなく予想外ですよ。本当に、上手くいきましたね」
 こんなに生き生きとした彼の笑顔なんて、富子は今まで見たことがない。
 美禰子は、私から多々良さんさえ奪っていくの?
(ああ、もう!)
 自分一人だったらここで散々怒りを爆発させるだろう。だが多々良がいる。怒りの矛先はただただ、頭の中で美禰子と、そして名も知らぬFの少年に向けられる。
 意外だった。美禰子の魔力を、侮っていた。散々この研究所で彼女が内包するモノを議論してきたというのに――尤もその侮りは富子なりの精一杯の抵抗、虚勢そのものだったのかもしれないが。
 計画の段階では美禰子は絶望し、力の消失とまでは行かずとも、力の発動はないと思っていた。それを、あんなにも底知れぬモノが富子を襲った。
 昔行った魔力の強さはどのテストを用いても、標準レベルだったはずだ。だがそれを否定せざるを得ないことは、皮肉にも富子自身の経験によって明らかになった。彼女の奥深くに眠るその真の力は、本当に、存在していたことになる。

 同じだったのだ。彼女の姉達と。
 富子だけが、持たざる者だった。

 魔法なんか使えない。そもそも魔力は欠片もない。美禰子とその二人の姉と同じ世界にすらいないのだ。――尤も二人の姉は既にその魔法を失っている。だがかつて持てる者だったのなら同じことだ。彼女達も美禰子のように、何らかの計画の要になる話だって、噂によると過去にあったらしいのだ。その内の一人など、そのことにかこつけて研究所の権力を笠にして幅をきかし、散々贅沢していた。そう古い記憶ではない。尤も彼女自体計画のことや研究所がどう利用しようとしていたかなど知らなかったようだが、そんな古い女のことなど今の富子にはどうでもいいことだ。
 そうだ。大事なのは今だ。今の計画の要。
 今の標的は、美禰子ただ一人。
 一人が持つには持ち過ぎてしまっているあいつが、憎らしい。
 だが、本当にそんな理由だけで美禰子を憎むのか。眉間の皺を深めれば、そう己の深奥から問うてくる。富子は拳を握る。スカートの裾を掴んで、ぎゅっと、皺になるほど。それこそ眉間の皺が可愛い程度で済まされるほどに。
 それらが虚しい怒りの発散であることを知っていても尚、止められない。
 魔力のこともそう。だけど、それ以上に。
 彼女はもう、きっと魔法より大事な伴侶を得ているのだ。事実魔法のことなどあいつはどうでもいいのだ。魔法人口の拡大を否定した伴侶を、あいつは肯定した。その持てるものの価値に気付かないで。
 あの時だ。ついさっきじゃない。
 美禰子と富子の世界は裂かれた。彼女の方から裂いた。
 魔法の放棄。
 そして愛する伴侶の存在。
 誰かが、自分を愛してくれているという存在。その有無。
 既に、二人は徹底的に道を違えてしまった。
 富子は光の射さない地下に一人閉ざされてしまった。こんな研究室に何の意味がある。自分の研究に、論に何の価値があろう。地下にいるもぐらのような、けれども魔力を有している研究員の方が自分よりずっと素晴らしい。
 何よりあちら側に、美禰子を見つめる視線がある。
 それは富子のよく知るもの。自分に向けて欲しいもの。
 その目は何を映すのか、その目は何を求めているのか。幼き頃から追い続けたものだ。
 多々良の、どこか情けない、不器用な、けれども優しい眼差し。
 彼が興味を寄せる対象は、富子ではない。
 ああ、神はどこまでこの世界を呪うのか。
 彼の興味の対象は、彼の目を煌めかせるのは、彼を微笑ませるものは、美禰子である。美禰子のその、魔力である。
 スカートを握りしめるのを、止めた。無力感が全てを虚しくする。怒りも憎しみも飽和した。溢れたそれらは無に帰する。疲れがどっと押し寄せた。きっと、弱ければそこで人は泣く。だから涙は弱さの証だ。
 だが富子は泣くのを善しとしない。虚しさに帰ろうとするそれらをむんずと掴んで引き寄せて、再び怒りを精製した。しようとした。
「それにしても予想外ですね」
 精製は、割り込んだ多々良の声に初期段階で頓挫された。静かなる激高を続けていた富子に反し、多々良はすっかりくつろいだ調子でコーヒーを啜っている。見るからに暢気なものでそれがかえって怒りを膨張させるものになるかもしれなかったのに、不思議と毒気を抜かれた。富子の怒りも憎しみも、姿を一変させる。呆れ、と言うものだ。
「美禰子さんの力の発動はあり得る範囲として、あの男の子が魔力を得るとはねえ……」
 はあ、と聞くからに大儀そうな大きな息となってそれは現実に現れる。富子はテーブルに歩み寄り、一口コーヒーをあおる。苦い。だがそれだけではあるまい。
「この世界は、やはり(F+f)だからでしょうかね?」
 独り言めいたそれは、多々良のものとは言えやはり富子の癪に障る。
「知らないわ」
 この世界の成り立ち。あちらの世界はF。こちらの世界はf。二つが一つとなって初めて世界は世界となっている。どちらが欠けてもいけない。それがあくまでもこの世界――fにおいての定説だった。FはFだけで成り立たず、fはfだけでも成り立たない。今後変わることはないだろう。真理にさえ近いものなのだ。
 Fに比べて優位なところは、Fと言うもう一つの世界に対し監視し、干渉出来る立ち場にあること。
 そして魔法が使えること。
「私はFに生まれるべきだったというの?」
 富子に、魔法は使えない。Fの人間と変わらない。
「もう少し巧い皮肉はお出来にならないのかしら?」
 なのに、Fのあの少年は手に出来た。きっと何にも知らないはずの普通の少年が。多分、トチメンボーが偶然彼の体に魔法を植え付けたのだろう。
 これも美禰子がいたから。
 気に食わない。気に食わない気に食わない。
「これは失礼」
 多々良はおどけて首を傾げた。これが多々良でなかったらカップを叩き割っていただろうし、いや、多々良でも富子の怒りがあともう少し多ければ、彼女の怒声は喚き散らされていたに違いない。富子の、彼への恋心による自制があったとしてもだ。
 複雑な胸中を一人抱えたまま、ふんと明後日の方向を向くしかない。
(……もし)
 向こう側の風景、無機質な白い壁を見る富子の眼差しは遠い。何か幻を描く瞳だった。
(もし私に、魔力があったら)
 もし、私が美禰子程の莫大な魔力をもし持っていたら、もっと違った彼の表情が見られただろうか。そう、富子は羨んでみる。幼少時から多々良のことを知っているとは言え、二人の間には見えざる壁があった。いや、いいや――多々良には誰に対してだって見えない壁を作っている。誰とでも気さくに付き合えると見えて、その実彼のことを誰も知らない。

 富子には見える。その見えざる壁が。
 人懐こいように見えて、その帰る場所を誰も知らない。
 彼はそんな、名もなき野良猫のようだと、密かに思う。

 彼の目の色が変わる時は、この計画に携わる時だけだ。莫大な魔力を持つ美禰子を要とする計画所の極秘計画。
(私が、美禰子から魔力を全て奪えたら)
 彼は自分にも、その子供のように煌めいた特別な目を向けてくれるだろうか。
 向けてくれる。富子の中で、既にそう決定している。
(だから私は、美禰子、あんたを奪うのよ)
 いいえ、こちらこそ。意を決した富子はかなり遅れて多々良に返事した。多々良の方は何の返事かわかっていなかったようでひたすらとぼけた顔を傾げている。んもう、とまた膨れそうになった時すいませんと多々良は苦笑する。
「賽は投げられたんですから、もう少し明るく、気負いせず、のんびりいきましょう」
「そうね」
「美禰子さんは、こう言ってしまってはまずいですが、馬鹿みたいにご主人のことにしか気を取られていませんから、計画になんか気付きもしないですよ。あのFの少年だって気付くことはないでしょう」
 本当にその通りで富子が何かを付け加えることもない。美禰子は事実、馬鹿のように健三を愛していた。自分の生きる意味は愛することだと、自分でこうと思いこんだ男を愛してそして愛されることだと、信じて疑わないことが行動や表情から一目で読みとれた。
 自分とは違う遠い存在の美禰子を、もう、何度憎んだ? 羨んだ?
 もうそれは終わりだ。思うだけで実行しないことはもう。そして富子が奪う番が来た。
 精々こちらの都合の良いように動いてもらうまで、と言葉には出さず多々良はそっと微笑し、コーヒーに再び口を付けた。余裕に溢れた表情だ。間違っていない。私は間違っていない、繰り返す度富子の方も笑みが深くなるのを感じていた。安堵感がさざ波のように体に行きわたる。ここに帰ってきて初めて深い安らぎを得られたことを、富子は実感する。
 多々良さん、と、意味も無く呼んでしまいたくなる。
 けれどもそれは胸の内でのみ。
「魔法を植え付けられたストレイシープが勝手に暴れてくれる。僕らはそれを観察して、ちょうどいい時に美禰子さんを回収すればいい」
 そうすれば――富子はその深い安堵の中で目を閉じる。
 そうすれば、いつかは自分も魔法を使えるようになるかもしれないのだ。
 そうすれば、いつかは多々良が、自分にだけ向けられる、意味のある眼差しで自分を見てくれる。
 そのいつかの安らぎの中で、けれども不意に思い出したのはあの黄金の光だった。
 恐ろしいそれは、よくよく思い返せば自分に向けられた魔法による攻撃を助けてくれたものではないだろうか。

(やめてえっ!)

 そう叫ぶ声を富子はやっと思い出す。
 美禰子の意志は、自分を助けることにあったらしい。
 自分の知らないところで計画の要にされる――人間扱いされていない、あの少女の意志。
 計画のレポートに書かれた夏目坂美禰子の六文字に、利用以外の意味を持たされない子。
 そしてその黄金は、遠い日の風景さえも思い出させる。まだそんなに昔では無いはずなのに、セピアに色褪せる程富子も美禰子も随分と遠いところに来てしまったらしい。思い返せばほんの短い間だ。美禰子の二人の姉は年が離れているから、その二人とだって実質ほんの数回程の顔合わせでしかない。あるいはそれは富子が知らない内にねつ造した風景なのかもしれない。遠い遠い夢の墓場から浮かび上がった、死んだ夢が見る夢なのかもしれない。
 なんて意味のないものだろう。なんて空っぽなものだろう。
 だけど、どうしてだろう。
 甘く切ない糸に、富子は一瞬優しく、縛られる。
 けれども、富子は糸を切る。あおったコーヒーの苦さがぶつぶつぶちぶちと、切なさを断つ。
 それは幻に過ぎない。全てが夢だ。富子が生きるのは、現実だ。そして今だ。
 友達だったのは、昔の話だ。
 今、富子が一番に大事なのは誰かと問われれば、富子はそっと、彼を見つめる。

 年齢不詳、灰と黒の髪の男。
 富子の一番の人。きっと、出逢った時から今までずっと一番の人。

「多々良さん」
 何ですかと返す彼の顔は普段より明るく見えた。その理由を今は追及しない。富子も意味なく笑った。

 何も考えずに彼に恋していたかった。

「あなたの淹れるコーヒーって、本当にいっつも苦いわね」











 そして富子は知らない。
 富子が物思いに耽る間、在りし日の友情に胸を甘く締めつけられていたその時、美禰子も富子も超越した次元のことを想い、愉悦を感じている男がいたことを。

 多々良と呼ばれる男が狂いさえも見出せる笑みを浮かべていたことを、彼女は知らない。

 2 
ワガマホトップ
小説トップ

inserted by FC2 system