俺は、夢を見た。
 ひっそりとした、寒色だけのパレットで描かれたような森の中にいた。息を吹きかければ梢の先から消えてしまうように脆く見える。まるで灰だ。
 幻想を表した閉ざされた世界に木立は並ぶ。
 俺の目線の先に、女がいた。
 少しだけ、俺から顔を背けるようにうなじ辺りを見せている。髪は短く、黒い服を着ていた。二人の間には距離があり、物の大きさがはっきり解らないが、その女は小さかった。少女のようだった。
 少女の顔が動く。
 顔は、俺の方を向こうとして――













「三四郎! よかった……起きた」
 夢から覚めた俺と真っ先に目を合わせたのは、美禰子だった。眉を八の字に曲げていたが次第に元の形に戻っていく。表情も、泣きそうに歪めていたのに、夜から朝になるように鮮やかに、元通りの元気で明るいものに戻っていった。喉乾いてるよね? と言うなり美禰子は視界から消えた。水でも持ってきてくれるんだろう。
 覚醒したばかりで頭は空っぽだった。体の隅々までまんべんなく疲れが広がって出来ればその調子で何も考えずぼうっとしていたかった。それでも、確かに解ることがある。
 ああ……そうか。
 俺は苦笑した。そして、一本取られたと頭を抱えた。苦笑はまだ続いていたけど、不快なものではない。むしろ愉快で、爽快だ。こういうのも、悪くない。

 夢の女は、美禰子だったんだ。

 簡単なことだったのに、どうして逢った瞬間に、気付けなかったんだろう。
「どうしたの?」
 コップ片手に美禰子は首を傾げている。あどけない造りの顔はあの夢の鬱蒼とした雰囲気からは遠すぎる。だけどあれは美禰子だ。間違いない。
「……なんでもない。……それよりあの後……どうなって」
 俺の記憶は金色の光で止まっていた。コップを置いて、うん……と言ったなり、美禰子は口ごもる。そして顔の向きを変えた。上体を起こして美禰子と同じものを見る。それは、この場に似つかわしくない、滑稽なもの。
 小さな羊。目を閉じて眠っている。
「健三さんが……こんなことになっちゃって」
「……それ、本当にお前の旦那さん……健三さん、なのか?」
「本物だよ!」
 美禰子の口調は強かった。コップの水が動いたかと思うくらい。
「私が健三さんのこと、間違えるわけないもん!」
 強張った顔をしてもう一度その羊を見た。ぬいぐるみだと言っても不思議ではない。人間がこんなものになる? 馬鹿馬鹿しい話だ……と話を片づけることはもはや出来ない程俺は今日一日だけでいろんなものを見、体験し、爆発させた。
 手のひらを見る。別段変ったところはない。俺が俺で無かった時――体中に光が走って、血や神経がそれぞれ好き勝手に熱を上げている、そんな風だったのに。
「富子は、集めれば元に戻るって、言ってた……」
 富子――我慢の限界を超えて、おかしくなったと判断すべき彼女は、俺のその様子を見て、魔法と言った。ということは俺も魔法を使えるようになったということだろうか?
 俺が、魔法使い?
 それはいくらなんでも、俺で遊びすぎだろ、この現実、と一発殴ってしまいたい。
 美禰子はちょっと考え事をしている隙にまたしょげていた。無言の羊と、向かい合わせで、虚ろだった。しかし、それだけの言葉で纏めるにはおかしい。それほど、その無機質な空虚さはやけに異常めいていた。

 異様な雰囲気を具現化したような言い知れない悪寒が、脊髄に走ったかのよう。
 美禰子、と呼ぶことも憚られてしまうような静けさ。
 何も無い、砕けた人形だった。

 あの夢で俺を囲む、寒色で寂しい、物凄い木立が、今ここに美禰子の形をとって現実のものになっていると言われても、不思議じゃない。夢の女は美禰子なのだからそうだとしても不思議ではない。けれども違う。さっきとは違う。はっきりとわかる。これは、間違いだ。
 時間が――彼女をその状態に無理矢理押し込ませて、止まってしまった。もう元には戻らない。そんな恐ろしい予感が俺の背中を走った時、
「元に戻るさ」
と、俺は弾けるようにそう言った。
 強い調子で、それこそが俺の持てる唯一の魔法だと言わんばかりに。
「そいつのこと信じよう」
「……三四郎?」
 返事が返ってこないんじゃないかという程儚く見えていたので、若干どきりとした。ここで引いてはいけない。俺は続ける。
「戻るって言ったんだろ? お前と富子は見た感じライバル同士か、嫌いな者同士だったかもしれないけど」
「富子は、友達だよ。……そりゃあ多少嫌味なところもあったし、よく喧嘩してたけど……仲が悪かったわけじゃないよ」
「だったら、信じろ」
 美禰子はぽかんとして俺を見た。呆気にとられている割には、観察でもするように凝視していて、恥ずかしくなってきた。なかなか次の言葉を続けられない。しかし、ここでも引いてはいけない。
「いや、俺だってこんな状況であいつを信じろなんてありえないって解ってるぜ? でも、それしかないんだ。周りは自分の姿も見えない闇だ。その中で一つだけ光が見えた。それしか頼るものがないなら、取るべき行動は、その光を目指して進むしかない……あーっ、何言ってんだ俺は」
 自分で言ったことなのに、歯が浮くような言葉で、正直赤面していることを自覚した。目をぎゅっと閉じ、頭皮を乱暴に掻く。
「――そうだね」
 美禰子の柔らかい声が、俺の目を開かせた。
 羊と向かい合っていたはずの美禰子はいつの間にか俺と向き合っていた。

 表情は、良好。
 虚ろでもなく、木偶の坊でもない、美禰子だった。

 ――羊が健三に戻れば、あんな寂しい顔をすることもない。この美禰子が誰にとっても本当で、標準で、いつまでもそうあればいいと願いたくなる。
 彼女に俺は、手を差し伸べる。俺が出来ることをして、少しでも役に立てればいい。
 美禰子は一瞬目を丸くした。でもその刹那はすぐに過去に溶ける。少し懐かしいものを、眩しそうに見つめる目をした彼女の手が、そっと重なる。
「頑張る」
「ああ」
「で、あの羊は厄介なことにこのFに散らばったんじゃぞ。しばらくは、Fで地道に捜索活動じゃな」

 無言を貫いていたから存在を忘れかけていたワガハイの言葉で、雰囲気をぶち壊され、無残に過去に溶けていったことを、俺は忘れない。

「っびっくりした! お前いるなら何か発言しろ! すげえびびったじゃねえか!」
「まったくだよー。でも、そうだね……Fでしばらくストレイシープ集めかあ」
 すっかり立ち直った美禰子は身軽に立ち上がって伸びをする。
「ああすっかり忘れてたけど俺の体さ、一体――」
「どうじゃ美禰子。ここに越してしばらく生活するというのは」
「いいの? それだったら助かるなあ」
 ? 待て。平凡だった俺を完璧に置いてきぼりにして、この魔法使いどもは何を話しているんだ?
「幸い部屋は余っておる」
「こんなに広いお屋敷だから使わないと損だよね」
「ちょっとお前ら! 何勝手に話進めてるんだ!」
「嫌なのか? こいつが来るの」
 ワガハイは、薄笑った。計画通り、してやったり、そんなあくどい笑いが裏に見えるような気がした――まさかカレーの時のお返しか?

 嫌と言ったら、嘘になることくらい、軽くお見通しのようだった。

「おいお前、長生きしてるんならもう少し器でかくしろよ! おいこらっ!」
 ワガハイその笑いを残したまま、老猫とは思えない身のこなしとスピードで夜の庭へ逃げ出した。その得意気な後ろ姿は、夜の闇に映えて妙に気高く、華麗だった。それを見て、俺は肩を竦めた。

「ということで、よろしくね!」

 そのまま後ろを向いたら、美禰子もまたその幸運に――計算されていたかもしれないが、でも、そんな疑いが晴れるくらい、無邪気に――笑っていた。
 俺も、笑った。

 細めた目の先に、じっとうずくまっている羊が少し、動いたような、そんな気がした。

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