「ねえ。知ってると仰ったけど――この話も知っておられる?」
わずかに、闇が動いた気がした。勿論素子がそう感じただけである。
「その生霊はね、直子様に恋をしているの。
直子様の横顔を一目見ただけで、恋に堕ちたんですって。
生霊は何度も何度もそのことを言っては、直子様を愛そうと苦しめているんですって」
闇は無言だった。素子は沈黙の空白に耐えきれず、少しくだけた口調で話す。
「何だか最近読んだ紫式部様の『夕顔』や『葵』に似ていらっしゃるわね!
そうお思いになられませんこと?」
尤も、闇の男が源氏物語を手にしたことがあるかすら素子には解らない。しばらくして俺は無教養だから貴族の物語は良く知らないと返ってきた。内容よりも、男の声が嬉しかった。
「――横顔を見ただけで、人は誰かを好きになれるの?」
思わず、無邪気な問いが素子の口から零れだす。言ってから、ああ、駄目だわ、と思う。
想いを伝える時は、相応しい紙に、ときめく香を焚いて、流麗な字で、技巧を用いてあでやかに、三十一文字で綴らなければいけないのに。
だけどもうその一言に――何の変哲もない問いかけに――素子は想いを込めてしまっていた。
男は答えなかった。それなのに素子の想いの奔流は出口を見つけたように言葉となって迸る。
「ねえ、わたくし――貴方が――愛しい。
闇の中にいるけれど、声だけで私を楽しませてくれる、博識な貴方が好き」
また素子は単を抱きよせる。寒いのでも、怖いのでもない。
胸を熱く、滑らかに溶かしていく恋情に、悶えていると言えば――きっと正しいのだろう。
「どうして、明かりのあるところへ出て来てくださらないのです」
男はやはり――答えなかった。だけど、素子の熱い眼差しは几帳を焦がし、素子にだけその後姿を透視させる。
自分とは違う肩幅、広い背中、少し浅黒い肌――自分の妄想だとは解っている。でも、そんな姿が愛しい。
「貴女と俺は、違う人間だからだ」
……身分のことだろうか。素子は空虚を飲み込み、口を閉ざす。女の自分では――いや、男でもどうにも出来ない問題だ。帝が恋をした采女も、結局は入水したのではなかったか。
素子は、何も言えないでいた。闇が動く気配を感じて、素子は小さく叫ぶ。