横顔




 始まりはほんの一瞬だった。



 御簾の隙間から仄かに覗いたあの麗しく清げなる横顔は、柔和でしとやかな印象を持つにも関わらず、俺の脳天に突き刺さった。たった一瞬のことだったのに、幾日も経った今でも残像は抜けやしない。
 それどころか、ずぶずぶと深く俺を侵し、何か俺の知らない甘美な快楽を、俺の中心から湧き起こさせてくれる。底の見えない井戸から、透き通った純潔の水を掬い出すように。

 牛車の前駆としてあの屋敷に行き、密かに仲間達と忍び込んだ時、あのお方の側目を伺えたことは、今まで下人として生きてきた中で何よりの至福だった。もとより下人の生活での幸福など、精々飯を食うことか眠ることか自慰をすることでしか感じられない。底の底の生しか俺達には与えられていないのだ。実際は、この甘美で濃厚な想いなど到底得られるものではない。それでも俺は――九死に一生を得たように、あのお方を想っている。あの、俺を虜にした、清廉な笑みを浮かべた横顔に。


 下人と貴族は、同じ人間であるというのにまるで種が違うように扱い、扱われる。住む世界が違うのだから当たり前だ。抑圧され無下に命令されることもしばしばある。接点は、むしろそれだけしかない。


 だからこそ、俺の胸に、あの方の側目を思い出すだけで揺らめき、燃えあがる情は異常であり――しかし異常であるが故に崇高で、唯一のものである。それくらいは、俺にだって解っていた。情は欲に変わり、欲は血流に乗せられ、俺を突き動かそうとするが、身分の壁が俺を跳ね返す。

 想いだけでは超えられないのだ――。

 俺もあの方も、お互いの名前さえ知らず、まして、身分なんて――。
 ああ、それでも、この想いをどうすればいい? 抱くまいとすればその意志に逆らってますます俺を悶えさせ、受け入れれば現実がその達成を阻んでくる。俺は当然だが学がない。貴族のように歌を詠むことも出来ない。この想いを、天上の月に向かって飛ばすことも出来ない。
 ならば、名前だけでも知りたい。名前のないものは恐ろしいのだから。
 たった一目見ただけで、理不尽に胸を焼く。指先からつま先まで駆け巡る。



 この甘くて苦しい想いの束は、何というのだ? 
 貴族達もこんな想いを胸に抱いて夜を渡り歩いているのか?



 ああ――俺だって夜毎、あの方に近づければいいのに。
 魂が体を離れていっても構わない。





 あの方が、愛しいのだから。






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