「待ってくださいませ。
私も――貴方の横顔だけでいいから、お目にかかりたいの」
間を置かず、素子は尚続ける。
「わたくしのことが――お嫌いですか」
ああ、闇が、今動きを止めた気がしたわ――少女は感じた。
「たとえ嫌いでも、横顔だけでも見れば、好きになってくださるのでしょうか。
……ええ、こんな理屈、我儘だって、傲慢だって、わかってい――」
「そんなこと、ない」
ぎゅっと握りしめた衣の繊維からも、自分の想いがこぼれ出て――そんな幻が素子の目に虚ろに見えた時、男は言う。優しく、それでも何かを拒むような声色が、素子に厳しく染みていく。
ならば、好きと言って――そう心の底が求め、声を出そうとした時、素子は止まった。
ああ、そうかと、解ってしまった。
向こうにいるあの人は、何でも知っているから。
男は素子が理解したのを察すると、気配をたちまち消してしまった。几帳の向こう側には、虚ろな闇が口を広げているだけである。素子は単を掴んでいた手をやんわりと離し、涙が流れるその面を包んだ。そして忍び泣く声を殺す。
素子が時の右大将と結婚したのは、その夜からそう遠くない日の出来事であった。