几帳の向こう側には射干玉の闇が広がっていた。
 部屋が続いているのでは無く、人知の及ばぬ魔界に通じている――そう見る者に恐怖を抱かせる。



「ねえ、三条の小野殿のお噂、お聞きになられて?」



 少女――素子はその闇に向かって鈴の鳴るような声で言の葉を飛ばす。事実、几帳の裏側には人がいた。しかしそれは素子つきの女房ではなく、女ですらない。



 ああ、と生返事を返す低い声色は、まさしく男の喉を通ったものである。



「不憫だわ。直子様はおそれ多くも入内前だというのに――あんな不吉な霊にとり憑かれてしまうなんて」
 素子はさほど肌寒いわけでもなかったが、身を守るように単を抱きよせた。
 三条小野中納言の娘、直子に身元不明の生霊にとり憑かれているとの噂が巷間を騒がせて久しい。もはや噂ではなく事実であることを、素子は女房達の話で知っていた。ものものしい検非違使の目つき、祈祷に来る法師や陰陽師達の足取りが重いことも、素子は話を聞いて、こんなふうかしらと想像していた。
 だけれども、生霊なんて絵巻物や作り物語の中だけのことと思い、自分にはそんな不吉なことなど起こるまいと、素子は今まで悠長に過ごしてきた。暢気な気分を引きずり思わず口にしてしまったが――単純に言えば、怖いのだ。そんなことがあるなんて。そして小野殿と、素子の屋敷はそう離れていない――。
「知ってる。――だけど、法師も陰陽師も役に立ちはしないさ」
 闇が黙った素子にそう呟いた。はっきりした声が素子を優しく撫でるように聞こえ、心に忍び寄っていた姿なき恐怖はたちまち霧散する。
 素子は闇に笑って見せた。しかし闇の向こうの男は素子に姿を見せたことはないので、その笑顔は無駄に散る。
「生霊なんて、物の怪なんて、いやしないんだからな」
「そうなのかしら」
 そんなことを言ってたら、物の怪に仕返しされちゃうわ――とまた素子は笑う。いつも闇は、根拠のないことを言っては素子を慰めてくれ、突如目が覚めることで生じる深夜の徒然を潰してくれていた。素子が闇に気配を感じて話しかけ始まった関係――それが長く続いている。もう一年は越えているだろうか。
 歌も詠まなければ、手紙を季節の花や紅葉に添えることもない。口調も素っ気なく、下々の言葉に近い感じがする。しかし、知識は何故か豊富で、素子の問いに答えられないことはなかった。素子にはよく解らなかったが、彼が口にする解説には、十分専門的なことも含まれていたはずだ。




 素子はその闇を――確信は持てないが、愛していた。
 互いの姿も見たことがないというのに。


 素子は熱い眼差しを几帳に飛ばす。
 物語だったら、この几帳なんか無視して、貴公子が私を攫ってしまうのに。
 よくわからないけれど、甘くて、切なくて、愛おしい――そう、素子は想う。




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