先輩の話の通り、埃っぽく、少し黴臭い。窓は開いてないけど、暗いのか明るいのか、暑いのか涼しいのか、色んな境界がよくわからなくなる。
「……話、もしかして聞いてた?」
 先輩は誰かに問いかける。二言三言交わす。内容はさっき話した、力について。どこかに平助がいるのだ。見えないけれど。
「あの……私」
「ここにいて」
 後ずさった私のスカートの裾を掴んだ。
「嘘じゃないってこと……平助がここにいるってこと、誰かにしっかり見ていて欲しいの」
 懇願する彼女に、私はただ動揺してしまう。
「何で……私なんですか」
「言ったじゃない。心境が整理出来たって。居藤さんになら、話していいと思えたって」
 インタビューから、そんなに時間は経っていない。ついさっきのことだ。私は、例の噂のことを頭の隅で気にしてはいたけど、まさか先輩がそんなことを考えているなんて――全然、気付かなかった。
 私が先輩にインタビューなんかしたりしなければ、噂のことを訊かなければ――ここに来ることもなかった?
 この子にも見えるように出てきて、と呼びかける声は小さく、優しい。するとどうだろう。背景がぐっと盛り上がったように見え、何もなかった所に男の人の姿が浮かび上がってきた。

 浅黒い肌にぼさぼさの髪。着崩した着物。悪戯好きそうな双眸と、楽しげな笑み。背も高く、私達とは明らかに違う男という性が醸し出す雰囲気は、存在を色濃く見せていた。
 これが平助。思っていた以上に若く見える。

「あんな話して……何かあったのか?」
「……お別れを、しにきたの」

 平助はまるで苛立ったように眉を顰める。
 私を見ているとばかり思っていたけど、平助は最初から先輩しか見ていないようだった。私は、単なる傍観者。それでも、何かここで大事なことがある予感がした。そしてこれは、私が原因で引き起こしたことでもある。
 きっと、引き下がってはいけない。
「ああ? 何言ってやがる。まだ夏休みにも入ってねえじゃねえか。卒業はまだまだ、随分後だろ」
「でも……私、もう平助から……」
「……なあ佐奈」

 嘘はやめな、と、刃のように鋭い言葉が放たれる。嘘、と私は声には出さず反復する。

「俺は博打もイカサマも嘘も得意だ。だからわかる。やめな佐奈。似合わねえよ」
 でも、私は……先輩はそう言いかけて一歩、後ずさりをした。
「これからは自分の力で、絵を描かないと」
 それも嘘、と大儀そうに首を掻く平助。半眼で彼女を見つめているが、それは皮肉な目ではない。先輩を愛おしむ目。その証拠に頬が少し緩んでいた。
「わかるよ。お前は俺にもだけど、まず自分に嘘ついてる。何でデタラメ言ってんだ?
 その顔で博打やってみろ。すぐ負けちまう」
 近付いていって、彼は先輩の頭を撫でるかと思ったが――にいっと笑うだけだった。

 もしかして、もう先輩には触れられない?

「お前の絵は、ちゃんと自分で描けてるんだよ。佐奈が持って生まれた才能だ。
 ――大体、俺みたいな悪党のどこに、そんな高尚な力があるってんだ。素人が、下手な嘘つくな」
 なあ、と平助は声と視線を上げる。私に向けられているものだと気付くのが少し遅れた。
「嘘だってわかってるだろ?」
 言われるまでもない。私は怖々と頷いた。ほらな、と平助は屈託なく笑った。先輩は唇を噛んで俯く。
 そして、私は不自然を正直に打ち明けた。
「話を聞いただけだけど、私には……先輩が、平助さんのこと、好きでたまらないように、思えました。全部、無理してるみたいで、本当は、離れたくない――そう言っているように、聞こえました」

 二人の出逢いや過ごした日々や思い出が恋の話と思えた。平助の力の話もどこか不自然に思えた。

 嘘をついて彼から離れようとする先輩の声が、まるで泣いているかのように聞こえた。

 先輩が、彼に恋していないわけない。


「……あの子の方が一枚上手だったな」
 何も言わなくなった先輩にそう笑いかける。やっぱり、力がどうとかは、嘘だったんだろう。けれど先輩は顔を上げない。
「なあ……佐奈。俺な……」
 鼻水をすする音が聞こえた。いや、よく聞いてみると――先輩が何か言っていた。平助は言いかけた言葉を口にしまった。
「だって……だって聞きたく、なかった」
 刹那、声が響く。


「好きな人からの別れの言葉なんて、そんなの、聞きたくなかった!」


 私は――頭を打たれたような痛みを感じた。
 別れられるのが辛いから、先に自分から退く。そんな選択は出来ないどころか、私には考えもつかなかったからだ。でも、それを実行した先輩が辛いことは、目で見ても耳で聞いても、痛い程伝わる。
 平助の眉は一瞬、悲しげに歪んだ。けれど何事もなかったように、彼は笑う。
「……いるんだよなあ、たまに。下手糞なくせに、妙なところで機転のきく奴」
 気付いてたのか、と力無く呟いた。
(――気付いてたって、まさか、やっぱり)
 思わず、何かを祈るように指を組んだ。
 欠陥が直ったら、成仏する。幽霊は消える。先輩に尋ねたことが、不安と共に甦ってきた。
 平助が「直った」ことに、先輩は……。

「ねえ……欠陥が直ったら、いなくなるなんて嘘でしょ? 平助は、平助は嘘つきだから」
「悲しませる嘘なんて、誰もつかねえ」

 悪党でもな。そう言う彼に浮んでいた笑みが、いつのまにか消えている。本当のこと以外、語らない。真剣なその目ときっぱりとした口調がそう宣言していた。
「幽霊なんてそんなもんは、もうこの世のものじゃねえんだから、一時的に現れたとしても、いつか絶対消えちまう。お前は聡い。――わかってるから、そうやって泣くんだろ?」
「平助……」
 先輩は泣いていない。けれど目がすっかり潤んでいる。ふとした拍子に崩れてしまう。

「そのうち、ちゃんと言おうと思ってたんだ。
 俺は、お前といられてすごく楽しかった」

 彼は笑顔でそう言うのに、今度は平助が窓際の方に一歩下がる。先輩と距離が出来る。
「俺はいろんなことをした。自分が楽しむために悪さをしまくって、人も沢山騙して沢山のものを手に入れた。金だって女だって。俺こそが稀代の悪党だって、そう思ってた……でも反面、俺は、どこか足りねえとも思ってた。どうも、楽しくねえなって。
 きっと、お前がいなかったからだ」

 もう一歩下がる。平助、と先輩が呼びかけても彼は頭を振るだけだ。

「俺がここに辿りついたのは、きっとお前に会うためだったんだ。
 それが俺に欠けていたもの。俺が長い間、気付けなかったもの。
 お前に会えた。お前の絵を見れて、お前と話せて、お前と一緒に居られて、楽しかった。
 俺が生きていた頃にお前がいたなら、悪さをせずにお前と所帯を持って、ずっと真面目に暮らしてても悪くなかったなって思えたくらいだ。
 そして俺が、ちゃんとした人間としてここにいて、お前とずっと一緒にいられれば――。
 だけど、俺は――俺はもう」

 でも、そこで二人が離れ離れになってしまったら? 私は思う。そうなったら、寂しくなるのは、欠けてしまうのは、先輩の方だ。
 先輩は――きっとまた、絵を描くことにも何もかもにも、楽しくなくなる。入学した頃のように。
 平助がいなかった頃に戻ってしまう?

「……全く、こんなことになるなんてよ。
 惚れた女を泣かせるなんて、本当に俺は、徹頭徹尾、悪党みたいだな。
 ……悪党だからか。こんな仕打ち……仏も鬼もろくなもんじゃねえや」

 眉を歪めて、平助はやりきれねえと笑った。
 平助の運命の相手は先輩だけど――先輩の相手は、きっとそうじゃない。何故、と私は唇を噛んだ。
「……別れを告げたのは、私の方」
 どんどん、平助は窓際に近付いていく。窓から漏れる光に当たると彼の姿が薄くなっていく。彼の姿が、光となっていく。彼が消えてしまう。出来てしまった二人の距離が辛い。
「先輩、いいんですか!」
「……いいの。当然の結果なんだから」
 彼女は動かない。先輩、と私は地団駄を踏むように強く叫んだ。けれど――風に揺れる枯れた花のように、弱々しく頭を振るだけだ。
「悪いのは私の方」
 目の淵が、涙で溢れている。その涙が彼の光に当たって煌めいた。瞬きもせず必死に堪えて、彼を見つめている。
「……平助」
 さよなら、と続くはずの言葉に佐奈、と不意に呼びかけた平助の声が重なった。先輩の声が引っ込む。
 苦笑した彼は泣くように目を細めた。

「絵、これからもちゃんと描けよ」

 息が、漏れる音。見ると、先輩の頬に綺麗な雫の一本道が通っている。もう一筋、二筋と涙の糸は増えていく。その目が完全に閉じられるともう何本も流れて、とても澄んだ川のようになった。

「平助!」

 駆け寄って光を抱きしめようとしたけれど――先輩の身が包むのは、ただの空虚だ。
「……平助?」
 腕を寄せる。だけど隙間が埋まるだけ。平助、ともう一度名を呼んだ。けれど物音一つしない。その場で、先輩は崩れ落ちるようにへたり込んだ。


 物置き教室に、もう幽霊はいない。
 ただ、幽霊に恋した少女が生気を無くし、その最後を見届けた私が、所在なげに立ちつくしているばかりだった。



    5 
novel top

inserted by FC2 system