「居藤さん?」
いけない。ついぼうっとしていた。
「どうしたの? ……もしかして、誰か、好きな人のことでも考えてたりとか?」
「え、まさかそんな!」
でも、その不思議な噂にどこか惹かれて、彼女を取材しようと思ったのは本当だ。
(別に噂を裏付ける証言なんか取れなかったけど)
創作活動に対する熱意は、ちょっとのことでは揺るがないという証拠は得た。色んな言葉の端々から、とてもよく伝わってきた。
先輩の描く絵はどれも抽象画と呼ばれるものだった。私には絵のことはよくわからないけれど、愛しく、懐かしいような、それでいてどこか不思議な心地を見る者に抱かせる。何度も謙遜し、未熟だと言っていたけれど、それを描き、表現しているのは、やはり先輩の生まれ持った力だと思う。
芸術に高校三年間を費やした先輩と学校の幽霊に、接点なんかない気がする。どうしてあんな噂が流れているんだろう。
「手伝ってくれてありがとう」
「いえ、とんでもないです。……あの」
「……居藤さん? どうしたの?」
「先輩は……居残り幽霊を見たことがあるんですか?」
噂のことを知っているんだろうか。そう思ったのが速いか、訊いたのが速いか。
「ごめんなさい、変なこと言って……。
もしこの噂がデタラメだったら、なんか、その、誰かが、先輩のこと悪く言ってるのかもな、とかも思って」
慌てて目を逸らす。先輩は何も言わなかった。機嫌を損ねたかな、と私は眉を下げた。
「……その噂、本当だよ」
「え?」
「ジュースでも飲まない?」
気にしていない様子に唖然とした。目線を戻すと先輩は変わらず優雅に微笑している。
「ごめんね。喋ってたら喉が乾いちゃって。……飲みながら、話そうかなって。居藤さんになら、話してもいいって思えたんだ」
少し呆然とする私の前を通り過ぎ、立てつけの悪い準備室の扉を開いた。
「私、誰かに話したかった。本当は、絵のことよりも、どんなことよりも」
秘密を教えるように先輩はこっそりと呟いた。
自動販売機がある休憩所には誰もおらず、ひんやりした長椅子に隣同士になって座った。
「あの居残り幽霊は平助という名前なの」
先輩は買ったレモンティーを口に含ませる。私はジュースを飲む気になれず、唾を飲んだ。鼓動が落ち着かない。まさか噂が本当で、しかも幽霊の話を聞けるなんて。関係なんかないと思っていたのに。
「少し長くなるけれど、聞いてくれる?」
頷くのを見届けると、彼女は意を決したように口を開く。部活動の音も自動販売機の稼働音も、すうっと遠のいていったような気がした。