向こう側から、誰かが来る気配がした。急いでスピカは涙を拭う。
僅かな光で照らされたその人物はオーレだった。今日一日で急激に痩せ衰えてしまったように、オーレの顔色は悪い。まるで幽鬼か、死神だ。その変貌ぶりにスピカは目を丸くしていた。
向かいに腰かける。カーレンを境にして二人は向き合う形となる。境界線となった眠り姫を見やり、こう呟く。
「――僕の所為だ」
か細い声だった。
「でも……あいつの、マーラの言う通り、痣は……」
何を、言っているのだ。絶望するように思う。ただの言い訳に過ぎない。自分が、カーレンを地獄へ突き落したというのに。
「カーレン君でなくちゃいけない理由がどこにあったんだ」
脆弱な声は一瞬で消え去り、反論を許さない強い調子で、オーレはスピカに斬りかかる。
そう言われると、黙らざるを得ない。しかし、彼女にいかなる攻撃も通用しなかったことを思うと、最初からカーレンが殺人を犯すとされていたのでは――最初から決まっていたのではという思いも、気味が悪いが、否めなかった。
しかしそんなことを言いながらも彼女にそれを促したのは、目の前にいる憔悴したオーレ自身だ。点と点がうまく繋がらない。スピカの目は戸惑いで伏せられた。
「だから、僕の所為なんだ。あんなことを、わめき散らしたから」
再び弱い調子でそう言うと、オーレは頭を抱えた。
それからしばらくは、波の音と、カーレンの呼吸とそれに寄り添う沈黙が、二人を包んだ。頭を抱え、俯いたまま――オーレはぽつりと漏らす。
「僕が殺したんだ。また、殺させたんだ。
今度は未遂じゃなくて、本当に、最後まで、完全に」
その独白にただ単純に意図が掴めず、スピカは首を傾げる。
また、とは、何のことだろう。
「オーレさん……? 何を」
「愛していたんだ。愛していたのに……」
オーレはその顔をスピカに見せる。
一筋の涙がひんやりと月明かりに照らされている。
よく泣く男だ――そんな場違いなことを思ってしまう程、動揺した。
まるで、まるで、堤が決壊したようじゃないか。
「愛しているんだ。昔も今も、これからも。
でも僕は、こんな風にカーレン君を汚して、罪に塗れきった男だ」
誰を愛しているのか、と考える余裕もなく、スピカはその静かなる告白――懺悔のような独白にただ耳を傾けた。
――聞く者は、スピカでなくてもいい。それほどまで、誰に語るでもないオーレの懺悔は孤独だった。
何もかもを、拒絶していた。
「愛しているのに――
でもだからこそ、愛しているからこそ、
離れるべきなんだ。死ぬべきなんだ。
なのに僕は、運命にかこつけて、のうのうと、生きている」
信じられなかった。自分達の頂点にいた男が、そんな言葉を口にするはずがない。似合わない。自分を生かしたのは、この男なのに――
しかし、涙を流すオーレは、不思議と穏やかな表情だった。確かにある憤りが、その所為かある程度膨らんでも、同時に萎えてもいく。
そして、思わず口にした。もしかして――と、何かが閃いた。
「――雛衣さんのこと……?」
彼が愛するならば、妻の雛衣以外にいないと、単純に、そう思ったまでだ。
オーレは何も言わなかった。全ての表情を消して、黙って立ち上がった。
あとにはただ、スピカと、目覚めないカーレンと静寂が残された。