海に還る



 日はとっくに沈んでいた。空には青白い星が瞬き、常夏の島の熱気は夜に宥められ、落ち着いている。
 スピカはカーレンの家にいた。静かなその巫女の家で耳を澄ますと、何十年も、何百年も変わらない、優しい波の音が聞こえる。子守唄のようだ。しかし眠っているのは、スピカではない。カーレンだ。
 そう、彼の目の前にカーレンが横たわっている。海で倒れてから、意識は一向に戻らない。オーレも行方を眩ました。かつてこの島にいた三人の輪は、静かに乱されていく。
 小さな灯と、わずかな月明かりだけが、眠り姫を照らしていた。かすかな呼吸がスピカに聞こえても、安心できない。しかし、波の、鼓動に似た音と、安らかなカーレンの息遣いがスピカを優しく包み込んで、ともすればふらふらと彷徨い出でてしまう自分の意識を守っている。そんな気はしている。
 マーラに負わされた傷に触れる。今も、鋭い痛みが、触れるたび体の痛覚のあちこちを巡る。眉間に皺を寄せ、カーレンの寝顔から目を逸らした。

 自分が傷ついたために、カーレンは、血で汚れた。
 あんなに怯えていたカーレンを闇に叩き落としたのは、自分だ。

 気を失ってから、彼女が凶行に走ったことを、誰に言われるでもなく、気付いていた。
 表情を悩ましげに曇らせ、だらりと垂れた自分の手や指を見つめる。青白い身体の先端が、冷たい月明かりに照らされる。まるで生きていないように不気味に見えるかと思えば、ぞっとするほど赤く染まったように、目の奥で見えた。

 あの日の記憶。
 生首を、宝物のように持ち上げていた。
 豊かな髪も、整った顔も、首筋も肩も胸板も赤黒い返り血に染め上げられて、一種の芸術に、至っていた。

 スピカ君だって――
 オーレの告発が静かに再生される。そう――もうとっくの昔から、スピカの手は汚れていたのである。沢山の命を乱暴に奪った。血の気の無い手が、闇よりも黒い真紅に蹂躙されていく幻覚を、確かに今、見ることが出来る。
 手を、丸める。
 玉響を殺してから、自分も死ぬつもりだった。殺した時が、自分の生涯も終わりと、そう単純に考えていたから、あんな大量殺戮が出来たのだろう。自分が死んだからといって、世界が終わるわけではないのに。世界は、無情に続くのに。ともかく、死ぬつもりだった。ぐずぐずとこの世に生き続けるつもりはなく、早く両親と姉達が待つ彼岸へ渡りたくて、しょうがなかった。

 でも、生きて、生き長らえて、そして、出逢ってしまった。

 再びカーレンを見る。伏せられた長い睫毛が美しい。
 彼女に抱きしめられて、スピカの中の何かが脆く溶け崩れ、本当に涙を流してから、もう随分経った。あっという間だった。
 そう、生きたいと、生きていたいと願った。死に値すべきスピカが、闇の底から、心の底から願ってしまった。
(こいつは)
 スピカは思う。

(死にたいと、思うのかな)

 玉梓の化身とはいえ――幼い頃から慕ってきた者の命を自分が奪ってしまったと後悔して、取り乱して、死を選ぶのだろうか、願うのだろうか。
 多くの人の死と誕生を見守ってきたこの島の巫女が、そんな風に狂うのか。今更のように、混乱してしまうのか。
(その時)
 両手を強く握りしめた。ただでさえも白いその肌が、さらに白くなる。

(僕はカーレンを、抱きしめられるだろうか)

 カーレンの手を握りしめたことは何度もある。しかし、その精神が入った器を優しく抱きしめたことは、考えてみれば一度もない。カーレンに出来ることが、スピカには出来ない。
 ――これから、出来るかも知れない。恥ずかしいから、格好悪いからなんて、つまらない理由を生むことなく。
 でも、その為には。
(――頼む)
 スピカの青の瞳が、若干潤んだ。

(死ぬだなんて、言うなよ)

 自分に生きる救いを与えたくせに、勝手に死ぬなと、スピカの頬に一筋、雨垂れのような涙が流れ、月明かりが冷たく照らした。
 


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