スピカは自室である処女宮に入り、後手で扉を閉め、背を預けた。窓からは少しだけ月明かりが射している。手の中には、赤い紐が結ばれたカーレンの温もりを残す鍵が眠っている。
 月明かりに照らされた部屋を見る。欧風の寝台が一つ、その傍に机が置かれている。カーレンが改装したのだろう。スピカはこの部屋に初めて入った。鍵を持っていたのは彼女でだから彼女はここにいた。
 ふらふらと、スピカは寝台の布団に倒れ込む。冷たく、どこか黴臭い。それでもカーレンが敷いたのだろうと思うと、スピカの中から熱い何かが込み上げてきた。
 そして手の中の鍵を月明かりに晒して少し見つめた。赤い色が見える。血管を見ているようだ。その弱い色彩がスピカの、カーレンに関する全ての記憶を引き出す。津波のような、突風のような、そんな記憶がスピカの体を流れる。
 火の島での出逢い。京でのこと。黒い紐。仇との決別。悲劇。再会――そして今迎えている運命の終わり。一つ一つの場面が、スピカの全細胞を震わせる。スピカの全生涯において、短い時間でしかない二人の記憶が、スピカの暗黒を無償で手放させてくれる。
 鍵を机に置いた。空いた手は、布団を抱きしめる。
 深く、強く、スピカは抱く。

 言葉にならない愛しさにスピカは溺れていた。それなのにカーレンに対し冷淡だったのは、変化を――終わりを拒んでいたからだとスピカ自身わかっていた。そうすることでそれが更に加速する惧れもあるというのに――

 運命が終わる。世界が変わる。自分とカーレンも変わるのだ。そう、スピカは思っていた。
 そのことから導き出されるあらゆる答えに、彼はただ恐怖していた。










 朝が来た。城から使者が来て、陽姫の命でオーレと雛衣の婚姻の儀を昼頃行うと聞かされスピカは軽く戸惑った。本気だったのかと、彼女の神聖さの裏に隠れた強引さに肩を竦めてしまった。
 まだ昼までには十分過ぎる程時間があるようだった。日はそれ程高く登っていない。しかし、とりあえず城へ行こうと外へ出る。視界の端に巨蟹宮がちらりと見えた。
 一旦立ち止まる。俯いて、しばらくするとスピカは足を進めた。顔は下向きのまま戻さず、そのまま城に向かう。
 城へ来ても、あまり勝手のわかっていないスピカは手持無沙汰に佇んでいた。ただ立っていても、と思い適当に部屋に入ってみる。
 女官の控室等ではないようだ。中に男性がいる。その男性は鏡と向き合っていて、スピカに気付いたのか振り返る。知らない顔だった。
「あ……失礼しました」
と言って退こうとするスピカは、もう一度男性をよく見る。俄かに違和感が起こる。
 少しだけはねた髪、礼節をわきまえている聡明な瞳。自然に浮かんでいる微笑は、スピカがこれまでよく見てきたものであった。

 ただ口髭がないことを除いて。

「おおおお、オーレさん?」
「おはよう、早いねえ」

 スピカの驚きなどまるで見えていないように、髭のないオーレはごく自然に、あっさりと挨拶した。
「ど、どうしたんですか」
 オーレのぼさぼさしていた髪はきちんと、少しはねているがそれでもまともに整っているし、彼を象徴していた口髭は綺麗さっぱりなくなり、着物や羽織も真新しい。結婚式だからということもあろうが、その急な変化は十分スピカを狼狽させ得るものだった。
「髭とかも剃っちゃって」
 スピカは改めて部屋に入り、畳に正座する。
「まあせっかくやっていただけるわけだし、長い長い旅も終わったから――。どう? さっぱりしたと思わない?」
 オーレは膝を進めて距離を縮めた。
「……年相応になりましたね」
「そうそう、今まで若く見えてたもんね」
「そんなわけないでしょう」
 しかし、年相応に見えるというのは素直に思うところだった。口髭や不精な髪の所為でオーレは実年齢より幾分年上に見えていた。
「ふふん。いいこと教えてあげようか」
 オーレは更に近付いてきた。互いに目に互いの顔がしっかり映る。不埒に光るオーレの目はスピカには単純に気持ち悪く、思わずのけ反る。オーレはそれを笑って体勢を戻した。そして紡がれた言葉はこんなものだった。

「僕は君が怖かった」
「……え?」

 初めて逢った時だよ、とオーレは微笑を無くし、真面目な顔でスピカを捉える。思わず、心が震えた。

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