スピカはしばらく歩き、宴会の騒ぎが遠く聞こえ、月明かりがやけに強い、風の心地よい場所で止まる。広大な景色が見渡せる。城下の家々はもう明かりを落としていて、穏やかな風に包まれていた。戦など無かったように、人は夜の胸に優しく抱かれ、幼子のように無邪気な夢を見る。
「スーちゃん」
 カーレンは小さく声をかけた。そっと閉じ込めてしまいたくなる程の静けさと心地よさだったので、なるべく壊したくなかったのだ。
 スピカは申し訳程度にカーレンの方を向いただけだった。すぐに彼の視点はカーレンから逸れる。風が通り過ぎるような動作だった。カーレンはそれでも少し驚いて眉を上げてしまう。
「よかったね。オーレさんと雛衣さん」
 それでも、カーレンは彼に話しかける。スピカは素っ気なく、ああと答えるだけで、カーレンの表情は次第に悲しげに萎んだ。
 降りてきた沈黙は、優しく穏やかにカーレンの口を塞ぐ。どんな時も沈黙は無慈悲だというのに。宴会の音や声が、彼女の耳を寂しく過ぎる。終わってしまえば寂しく、空しい夢のようなものだからだろうか。終わる前からもう始まっている。始まる前からもう終わっている。カーレンはそう、ぼんやり思う。
 そんな思考に嫌気がさし、だからカーレンは口を開く。
「ねえ、スーちゃんはこれからどうするの? 里見に残るの?」
 言ってから、これが一番訊きたかったことだと気付く。
 カーレンはあの日、スピカと生きる未来を選んだ。選んだ以上、出来る限りスピカと共にいたいのだ。カーレンは当たり前のように彼と共にいるつもりだった。
 そのことと、スピカのことが好きであるということには――違いはない。同義に等しい。
 だけど、それは自分に限ってのことだ。カーレンは知らずぎゅっと手を丸め握っていた。

 スピカがそうであるかなんて、カーレンにはわからない。悲しい程に、自分達は違う人間なのだ。そう、陽姫が玉梓にそうきっぱりと言い放ったように。けれども――彼女が続けて言ったように、だからこそ、想い、想い合うことが出来る。
 自分に関しては、自分のことだ。自信がある。

 だがスピカは、どうなのだろう。
 カーレンの白い肌を、初めて感じる種の恐怖が這う。

「……わからないな」
 変わらずスピカの返事はつれない。
「……どう、するの?」
 だがカーレンは会話をやめようとしない。
 急に、スピカはカーレンの方を向いて、惜しげなく見つめてきた。いきなりのことにカーレンの鼓動は高鳴る。
 青い潤いを持ったその瞳に、赤い目のカーレンが映る。スピカは強く、見つめている。目にカーレンの像が焼きついてしまうくらいに、それは睨むこととと同じくらいに。カーレンは黙る。ぞくぞくと、緊張が彼女を襲い、縛っていく。
「……お前に、関係ないだろう」
 小さく、ためらいがちな声だったが――その言葉はカーレンに針のように突き刺さる。
 予期していたからこそ。そして同時に、予期していなかったが故に。
 ――思い上がっていた自分への、正当な痛みだ。
「――ごめん、なさい」
 カーレンはスピカの視界から逃げ出した。普段は楽しそうに整っている眉は悲しげに歪む。表情も火が消えたようだった。
「あの、さ」
 スピカの声もまたどこか同様だった。後ろめたさを感じる声だが、それは一瞬のことだった。ばっとスピカの手が伸びる。何かを振り切るかのように。
「鍵」
 彼の居住する処女宮の鍵は、カーレンが預かったままだ。
 その鍵は渡された日から常にカーレンの身をつかず離れず、彼女と共にあった。
 スピカのものなのだから、カーレンは何も言わずスピカの美しい白い手に鍵を載せる。
 鍵に結ばれた赤い紐が揺れ、カーレンの心はたちまちざわめいた。
 返したくないと、体の中心から声が聞こえる。その鍵があるから――返すという約束があるから、二人は再び向かい合える。
 スピカは鍵を一瞥し、カーレンの横を通り過ぎようとした。何も言わず帰ろうとする。
 風と共に恐怖が、寂しさが、カーレンの肌を撫でる。
「待って!」
 何の恐怖か知らないが、それにひれ伏そうとはせず、カーレンは気丈にもスピカの腕を掴んだ。左腕だ。いつか自分が結んだ、黒い紐が揺れている。
「……離してくれ」
 言葉は冷たかった。動作は躊躇いが見えながらも、乱暴だった。
 カーレンの手は振り解かれる。スピカは非情にも彼女を見返ることもせず、夜に消えていく。振り解かれた彼女の手は、どこか熱かった。スピカの熱だった。
 夜に消えていくスピカを目で追おうとしても、もう見えなくなっていた。手を伸ばしたくても、意味がなかった。いつか、似たようなことがあったとカーレンは思う。
 だらりと顔が下がっていく。涙が地に堕ちるのとほぼ同じ速度で、ゆっくりと視界が変わっていった。
 足首を見た。黒い紐が影の中で黒々とその存在を主張している。スピカとカーレンを繋ぐものが、カーレンを促す。だからカーレンは見えなくなっても、彼を追いかける。
「あ……」
 しかし、違和感がカーレンの足元から起こる。
「紐、が……」
 見れば、左足首の黒い紐が、輪を崩している。解けていた。切れていた。
 それに気付くと、カーレンはその場にただ呆然と立ち尽くした。闇よりも深い夜の底へ落ちていく感覚が、彼女を静寂の空間に押し込め、磔にしたのであった。

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