ひとりだけの姫君



 十年の長い呪縛を破り、オーレと雛衣の時計はようやく歯車を回し針を進める。二人の抱擁は、見る者が内に抱く障害や壁といったものさえも、雪が自然に溶けていくように感じさせるある種の暖かさがあった。
「じゃあ、戻りましょうか」
 陽姫はにこにこしながら周りと同じく二人を暖かい目で見つめていた。その呼びかけには、若干この幸せな空間に対する名残惜しさがあった。スピカはふと空を見る。どうも、夕焼け空が広がっているようだ。朝ではない。これから夜の時間だ。
「あのさ陽姫、おれ達の珠、無くなっちゃったんだけど」
 光になって、と信乃は付け加える。痣はまだあるわと元気よくチルチルが続けた。
「それは大丈夫。珠の力はもう、みんなの体にすっかり収まってしまったから」
 とてもさっきまで泣いていたとは思えないような笑顔で陽姫は答える。カーレン達の特別な力も全部ね、とチルチルを見る。元気だな、とスピカは感じた。きっと早く戻って、シリウスと再会したくてたまらないのだろう。
「雛」
 オーレの、妻を呼ぶ声がした。どこか控えめだ。手がすっと差し出す。その構図は欧風の姫と騎士さながらだ。
「行こうか」
 雛衣は微笑して夫の手を取る。変わらない、いつもと変わらない。だが確かに何かが変わったのだ。
 スピカは立ち尽くす。風が吹いて梢がせわしげに鳴った。冷たい。夜の息吹だ。
 玉梓と陽姫を巡る運命の輪の回転が止んだ。陽姫は玉梓の最後の呪いによって不老不死となったらしい。オーレと雛衣は新たな日々を始める。何かが変わっていくのだ。
(……終わったんだな)
 そう、回転は止まった。――運命による物語は、終わりを告げた。十二人を繋ぐ運命はもはや無い。スピカは瞬時にそれだけのことを思った。
 急に、足場がぐらついたように感じた。
 何かが変わること――それは、良いことばかりではないはずだ。
 そう思うのは、自分という人間が暗い世界に閉じ込められていたから、いや、自らを、閉ざしていたからだろうか――。
「ねえ、スーちゃんってば!」
 カーレンの声が、スピカを思惟の世界から連れ戻す。その出入りは一瞬間の内に起こったため、スピカはああ、やら、うう、やら生返事もいいところな声を返してしまう。
「おいてっちゃうよ、もう」
 困ったように怒ったように、しかし満更でもないようにカーレンは笑ってスピカの手を取った。

(もう、終わったんだ)

 仲間達の中心に陽姫がいる。陽姫から始まった戦いも終わったのだ。
 カーレンの手に引っ張られる自分の手を、スピカは誰にも気付かれないように悲しみが揺らめく瞳で見つめた。







 光の移動で、瀧田城に到着する。太陽は尻尾の方の光だけを夜に混ぜながら、もう姿を完全に消しつつあった。夜がやってくる。
 ちょうどプリンセスパレスの近くだったようだ。ところどころ欧風の造りが目立つ建築がなされている。
「姫!」
 シリウスの声がした。何も言わず、一団の中心から陽姫が、声のする方向へ走り出す。
「天狼!」
 そして二人は三十年ぶりにようやく再会を果たす。振り、どころではない。三十年は長い。オーレが生まれて生きて様々な悲しみを隠して今日まで成長するくらいの長さなのだ。その年月は重いと、スピカはしみじみと、どこか冷静に感じた。
 しかし出逢ってしまえば――それは単なる数字でしか無い。陽姫は、既に老体になりつつあるシリウスを強く抱きしめた。
「天狼もすっかり老けちゃって……」
「お変わりなく、何よりです」
 陽姫に強く包まれ、老いた頬にシリウスは星のような雫を流していく。
「やだ、泣かないで」
 そう言う陽姫も涙声だった。隠すことなく涙をその手で拭い、しゃんと立つ。
「戦は、終わった?」
「ご心配なく――玉梓を、倒されたからでしょう」
 十二人と陽姫が玉梓のもとへ飛ばされた時から、もはや二日経過しているという。その間、相手側の士気や勢いは不思議なほどにみるみる落ちていき、数こそ少ないが里見側の兵が奮戦した結果――出来得る限りの最小限の被害で、各管領との和睦までこぎつけた、という。
「そう。それなら……ええと……」
 何やら陽姫はぶつぶつ呟きながら次第に目線を下げていく。姫? とシリウスが呼ぶと何でもないわと元気な笑顔で再び顔をあげた。
「とにかく里見の――私達の為に、ありがとう」
 それは、とシリウスはくすりと笑う。
「待ちに待っている兵達に仰ってくださいな」
 何だろう? と一行は城の方を向く。全員が耳を澄ます。笛の音や琵琶の音、太鼓の音、とにかく陽気で楽しげな旋律、笑い声や拍手喝采なども聞こえてくる。
「姫達が戻ってくるまで、勝利祝いの宴会は延期していたんですよ」
 えんかいっ! と目をキラキラさせたのはチルチルで酒だっと盛り上がったのは与一や太望である。シリウスとオーレは目を合わせてやれやれと目を細めた。
「――オーレ」
 シリウスは改まってオーレを呼ぶ。
「……お気づきですね」
 オーレは笑みを止ませない。
 シリウスだけが、オーレと雛衣のことを知っていた。そしてまた、深い闇の存在にも、気付いていた。
 与一達、陽姫は二人にちょっと目配せしてから城の方に向った。スピカはというと何となく機を逃してしまい佇んで二人を見つめてしまっていた。カーレンもスーちゃん? と呼びかけた後、その場に残る。穏やかな横顔で彼女もまた彼らを見つめた。
「すまん。……何も出来ずに」
「いいのですよ」
 答えたのは雛衣だった。
「私も、悪かったのですから。オーレに何も言わないで、いましたから」
「まだ三十です。これでも若いつもりですよ。これからがあります」
 それだけ言うと、オーレは妻の手を引いて。息子が待っているであろう宴会場に向かう。スピカとカーレンも向かう。

 その場に、ひとりシリウスだけが残る。浮かべていた微笑をやりきれない想いの影が落ちるものに変え、やがてひっそりと絶えさせながら。
 一つ、冷たい風が吹いたのを感じるのも彼だけだ。
 人知れず、彼が口にしようとした言葉も胸中に残ってしまう。山へ身を移すつもりだ、いや、移るべきだと――そこで自分は死ぬべきだと、彼は宣言できなかった。







 宴会は始まった途端に無礼講の場となる。誰もが勝利を、生還を、そして太陽の姫の復活を祝っては笑い、はしゃぎ、泣き、やはり笑う。喜ぶ。自分らが幼い頃に見ていた姫が実体を持って今に存在していることに驚いている者達は皆陽姫と話したがった。美酒が陽姫にどんどんふるわれる。彼女は全く身分・上下関係に拘泥しない。喋り、美味しく飲む。その為それなりに酔いが進んでいた。
「ねえオーレ、それから雛衣」
 賑やかな中で一家団欒を築いていたオーレ夫妻に、そんな陽姫のほろ酔いを感じさせる声が飛んでくる。
「あなたたち、仲直りしたんだか、もう一回祝言をあげておしまいなさいな」
 ぶっとオーレは口に含んでいた酒を思わず吹き出してしまった。礼蓮が慌てながらも不思議そうにそれを見ている。
「まあ姫様。名案ですね」
 でしょうと陽姫は鈴のように笑った。
「善は急げね。明日よ明日。これ、姫の命令、お願いね」
「父上、母上と喧嘩していたのですか……?」
「いや、決してそういうわけじゃないよ。それよりも、明日は急すぎますよ、姫!」
 明日やるのよ、と陽姫は柔らかい口調ながらも頑固なまでに譲らない。その様子を見て陽仁も陽星も腹の底からというように笑っていた。ほろ酔いになった陽姫のこんなわがままな姿を見るのは当然、初めてだからだ。
「ニコくん、これ美味しそうだから、はい、どーぞ!」
「ありがとう」
 酒の飲めないニコとチルチルは食べ物に舌鼓を打つしかないが、この楽しさの中にいるだけでも十分ほろ酔いになっているのか、二人とも頬が少し赤かった。
「村雨丸、お返しに行かないと」
 急に思い出したように信乃は言った。村雨丸は今でも信乃のもとにあるが、本来はとある城主のものであるのだ。詳しいことは双助、与一しか知らない。
「ちょっとちょっと、大事な刀のこと今まで忘れてたわけ」
「仕方ないですよシュリさん。ずっとごたごたしていたし、いろいろと問題のある身だったんですから」
 お返しに行きましょうと双助は身を乗り出して笑顔を見せた。信乃も双助も同様に頬は赤い。
「信乃――その村雨丸はもしや古河の」
 突然陽仁から声をかけられ、信乃は弛緩していた体を慌てて直しはいと返事した。その様子がおかしかったのか、シュリの隣の花依は目を細めた。
「なら――和睦に関しての御礼の件で近々参上いたそうとしていたところ、ちょうどいい、信乃も来なさい」
「よろしいのですか」
 引き続きはいと返事し、謹んでお伴させていただきますと恭しく頭を下げた。
「おれもお伴致します!」
 そう言う双助の脳裏には、まだ運命の渦に飲まれる前に村を発った自分と信乃を浮かばせているのだろう。
「お父様、その、私も……」
「花依が行くならあたしも行くわ。心配だからね」
 楽しくなりそうですねえと双助が言うのを遊びじゃないのよとシュリがうち返す。そのまま取り留めのない話を、華北で出逢った四人は体を休ませながら展開していった。
「わたくしの屋敷や山、叔父にまかせたきりですわ。一度帰って、様子を見なければ」
「そうだったな。――どれ、道中付き合ってやろう」
 その言葉に、初めて李白はこの場で頬を桃色に染める。彼女は酒が飲めない。花火は杯を弄び、行くところもないしな、とどこか寂しげに呟いた。
 そっと彼の手に李白が手を重ねる。その瞬間、花火の頬が少しだけ赤まったのは、誰の目にも見間違えではなかった。その手を撥ね退けることは、花火はしなかった。
「わたしも一度帰った方がいいのかしら」
「ぼくも――伯父さん、どうする?」
「親父に報告しとかんとなあ。しばらくしたら行ってみようかの」
 じゃあ俺は留守番するかあと一際陽気に与一は笑った、
 そんな雑多な話が様々に咲いていた。太陽が出て、はじめて花開いた花畑と、そこに集う人々といった具合だった。
 それを見ていたスピカは急に立ち上がり、そのまま宴を抜けていく。誰もが誰かの話や芸や歌に夢中だから、気付く者はいない。
(……スーちゃん?)
 けれどもカーレンだけは気付く。彼女も宴の世界からするりと抜け出し、彼を追う。


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