「玉響への道を、僕が遮ったでしょ。腕を掴んでさ」
 そう、そしてオーレはその手を決して放さなかった。手の主はその為運命というものを知って、今ここに至る。
「そんときの君の目つきっていったらさあ、怖いのなんのって」
「はあ……そりゃすみません」
 まるで、とオーレは真顔に戻り言う。
「僕の罪を弾劾しているようでさ」
 スピカの反応を見る前に彼は鏡の方を向いた。スピカはただ目を瞬かせながらオーレの背を見ていた。
「本当はね」
 オーレは鏡の向こうの己とスピカに話しかける。
 話の内容は、オーレが紫の空間で告白したことだ。それとなく気付いてたスピカは、息が詰まるような気がした。
「……今もまだ怖いんだ。君が、じゃないよ」
 オーレは苦笑したようだった。
「僕はまだ……僕を許しきったわけじゃない。いや、許すわけがないんだ」
 切った髪を、せっかく整った髪を、オーレはくしゃりと崩す。スピカにはオーレの背だけしか見えなかった。彼の表情は鏡の向こうのオーレしか知りえない。
 向こうにいるもう一人のオーレが許そうとしない。妻と子供を殺そうとした――愛する人を、本当に心から愛する人を捨てたという罪を、今でもオーレに突きつけている。
「そんなに簡単に罪を捨てることは出来ないからね。そう思っている僕を……」
 オーレは深く項垂れる。その為スピカは鏡に映る己を見ることが出来た。スピカと鏡像は、同じものだった。スピカは口を開く。
「いい加減にしてくださいよ」
 声は出したスピカ本人も意外に感じた程、存在感のある大きさだった。その存在感が消え失せないうちにスピカは続ける。おそらく、利口なオーレならもう気付いていて、しかし誠実であり潔癖であろうとするオーレだからこそ妥協できない答えへの、スピカはただ敷こうとした。
「雛衣さんは、そうやってうじうじしてるオーレさんも、みんな……」
 そう、みんな、とスピカは自らに確認を取るように一度呟く。
「過去も、現在も、未来も――いつだって、どんなあなたであろうと、受け入れてくれるんですから!」
 スピカは何か、自分の体の奥にある熱いものにその言葉を出せと命令されたかのように覚えた。放った言葉は、耳にやたらと熱く残っている。
「オーレさんも、雛衣さんのこと、もっと信じてあげてください」
 オーレが次第に顔を上げていった。また、泣いているのだろうかと頭の片隅で思う。オーレという像を、彼自身流した涙が溶かしていった。涙を流すことが出来るのは、そこに信じる心があったからだろう。
「僕らのことを信じているみたいに」
 言ってみると、スピカは急に恥ずかしくなって目線をオーレから右斜め下に逸らす。そして茶化すように、孤高気取ってんじゃないですよ、と唇を尖らせて言った。
 目を逸らしたままなのも気まずい、と思い顔を上げた。オーレは鏡から目をこちらに向け、何事もなかったかのように笑っている。ゆったりとした動作で鏡に背を映し、スピカと向き合った。そして、そうだね、と少し笑みを深めた。
「……そうですよ。呪いは解けたんですから」
 スピカも、ぎこちない微笑を返さずにはいられなかった。
 オーレの下睫毛は濡れておらず、頬に透き通る道筋も出来てはいなかった。スピカはどこか安心した気持を覚えた。
「さて」
 オーレは座り方を少々崩し、左肩を揉みながら言う。
「そしたら今度はスピカ君の番だ」
「……は?」
 とぼけんじゃないよ美少年、とオーレはおどけながらスピカに近寄りまるで念を押すようにスピカを指差した。笑みは意地悪なものにすり替わっていた。
「カーレン君とのことさ」
「……」
 スピカはだらしなく開けていた口をきゅっと閉め、黙ってオーレに背を向けた。その様子に困ったように息をつきオーレは頭を掻く。
「あれだけ火の島でいちゃこいといて、はいさようならってのはあり得ないよ」
 おそらく昨夜、スピカが独りで帰ったのをどこかで見ていたのか、カーレンが独りでいたのを見たのかもしれない。しかしオーレに限っては、何の証拠がなくてもお見通しだという気がした。彼が自分に架していたらしい呪いは解かれたのだし、それくらい――二人の今を見抜くことくらい、容易いのかも知れない。
 スピカは冷たく言う。それが強がりと知りながら。
「オーレさんには関係ないでしょう」
 ふうん、とオーレもスピカに背を向けたようだった。そして、そうだねえと口調がどっと緩んだ。
「君と僕は十も年が違うんだもの。考え方が違っていて当たり前だ」
 スピカは何も言わなかった。ただ黙っていた。さっきスピカに命令した熱い何かも、体の持ち主に従い息をひそめて、口は一言も言葉を発しようとはしない。
「正直に訊くよ」
 オーレは言った。口調は緩まず、それでいて優しく、スピカの熱いものに直接問う。
「君、カーレン君のこと、好きかい?」

 問われたら、答えなければいけない。
 問われなくとも、言わずにはいられない。

 スピカはゆっくり口を開く。

「好きですよ」

 そして言葉は溢れ出た。

「好きですよ。あいつが僕のことを嫌いだとしても。僕らが、運命なんてものに動かされて出逢ったんだとしても――そんなの全然関係ない」

 関係ないんです――スピカは知らない内に自らの手を強く握りしめていた。その形なき熱い決意を、それでもなお掴もうとするように。既に自らのものであるそれを、なお自分の中に深く取り込むように。

 目を閉じれば甦るだろう。二人の出逢いの浜辺が、二人の再会の海辺が。無邪気にスピカを呼び、意思の強さと内包する脆さを表すような、けれども煌めく微笑を浮かべる、誰よりも尊いその存在が。
 誰もが認めるであろう。誰もが頷き笑い、祝福するであろう。

 世界にただ一人だけ、スピカに生きる赤を授ける姫巫女。
 スピカだけの、姫君だ。

「僕は、僕はあいつに、カーレンに出逢うために生きていたんだって、そう思えるくらい、運命も偶然も何もかもが霞むくらいに――好きに、なってしまった」
 スピカの手や体に、カーレンのぬくもりが言葉に誘われ、甦ってきた。
 まるで今まさに包まれているかのように。
「でも――」
 でも、とスピカは手を握りしめる。

 運命など関係ないと思えるくらいだというのに、スピカは震えた。
 これからどうなるのか、わからないから。
 変わっていくのが――怖いから。

「でも」
「いろいろ言い訳は聞きたくないなあ、おじさんは」

 オーレはスピカと背中合わせになるのをやめた。衣擦れの音がする。
「一つだけ」
 スピカは一旦黙ってそう告げた。

「一つだけ、何さ」
「あいつから聞いていない言葉があるんです」
 その言葉を、些細なものだと人は思うだろう。
 だけどもその言葉が鍵になる。
 きっと怖くもなくなる。
 二人で生きていける。
「好きとか愛しているとか?」
「違います」
 震える中、その言葉が運命に縛られることとそうでないことに分けるのだろうという考えに至ったのだ。本当はもっと前から気付いていたのではないかと感じもした。
「……オーレさんなら少し考えればわかるはずです」
「あー?」
 オーレは上目を向き首を右に傾ける。やがて得心したのか何度も頷いた。
「あーあーあー、はいはい。なるほどね」
 そしてオーレはとびきり笑顔でスピカの肩に手を置き、肩揉みをする要領で顔を耳元に近づけていく。
「しっかしそんなところに拘ってるなんて、やっぱり乙女だね、スーちゃん」
「その名前で呼ばないでください!」
 ようやくスピカは振り返る。少しだけ鏡に映っている己の姿は、果実のように赤く染まっていたのだった。





 そして時は過ぎ、オーレと雛衣の結婚式が簡素ながらもおごそかに行われた。雛衣は略式のものといえど良質な白無垢、オーレは紋付き袴で二人とも緊張していた。窮屈だが幸せの象徴としての儀式が終われば、そこにはいつも通りの微笑が戻ってきた。
 結婚しているはずの父母の結婚式ということで礼蓮はどこか腑に落ちない表情を浮かべてはいたが、変わらず父母が笑っているので息子である自分も笑った。一家の幸せがそこに花咲き、見ている者に安らぎと和やかさを与えた。
 それなのに――カーレンとスピカだけが上手くその心地よい海に浸れなかった。カーレンはスピカと少し目が合った時、明るく笑って見せた。しかしスピカは笑い返すことをせず、ぎこちなく目を逸らすだけだった。カーレンの笑みは急速に萎み、ついには顔さえ伏せてしまう。スピカも同じように顔を落とし誰とも目を合わせない。
 スピカは気付いていた。自分の目に、悲しみがあることを。恐怖に怯え、変化に戸惑う色があることを。それを誰かに、とりわけカーレンに指摘されるのを――彼女はきっと、優しく受け止め、笑ってそれを否定してくれるのに。

 スピカはただ、恐れていた。


   4
プリンセスパレス最終話に続く
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