虐殺の十二宮


 オーレは暗闇の中にただぼんやり突っ立っていた。
 空気の流れも時の流れも、オーレさえも止まってしまっている、まるで厳粛に守られた絵画のような暗闇の中で、オーレは何かを見た。
 左目のない父。右目のない母。残った二つの明眸は、まるで血が自ら光を放っているかのように赤かった。
 二人の前に妻がいる。腹が膨らんだ雛衣がいた。雛衣の顔は妙に澄んでいた。あらゆるものを浄化して、そして死んでいく者の如き清々(すがすが)しさを帯びていた。
 彼女の手にはぎらりと光る懐剣が握られていた。雛衣はその刃を見つめている。何ら変わりのない、その清々しい表情で。
 刃はまっすぐに腹に向かおうとしている。そうだ。オーレはようやく全てのことを自覚した気がした。そうだ、彼女は死のうとしているのだ。オーレの父母が嗤う。これ以上の恐ろしさは無いとばかりの慄然がオーレの細かな部分も逃さず、全身を襲う。
「やめろ! 雛、やめるんだ!」
 オーレの声が命を懸ける程の勢いで、その恐ろしさを破壊しようと飛び出した。その時、オーレが叫びたかった声ではないものも、飛び出す。十年を経て、オーレは動こうとする。
「でも、それはお前が望んだことだろう」
 父母と、雛衣の像が消えた。そのかわりに、間違いなくオーレ自身の声がした。彼の背後から聞こえる。振り返ってはいけない。オーレは再び動けなくなる。
「何を言ってるんだ」
 オーレは背後の己にそう告げる。全身から汗が滲む。息が詰まる。苦しい。
「だってそうだろう」
 背後の己がせせら笑う。
「お前は、もう死んでしまったはずの両親を、化け猫が分裂して化けたものと見抜けなかった。それは玉梓でもあったのにな――馬鹿なお前は、もう得られない……そう、永遠に得られないはずの父母の情を欲しがった」
 見覚えのある腕がにゅうと背後から伸びてきて、後ろからオーレを圧迫する。そして耳元で毒のように呟く。
「その為にお前は妻を」
「やめろ」
「雛衣を」
「やめろっ」
 声が嗄れていく。うまく声が出せない。
「ずっと、――ずうっとお前の傍にいてくれた雛衣を」
 やめろと言いたい。闇の蓋をこじ開けたい。これは悪夢だ。覚めろ。覚めろ。オーレは光を希った。しかし闇は未だにオーレを痛みつける。
「そしてお前も雛衣も欲しがっていた、大事な大事な子供も、ぜんぶ」
 オーレは、声に出せず、空しく口だけを泳がせた。


「――ぜんぶ殺そうとした」


 ぞっとした。襲いかかってきた冷たさがオーレを固める。声は依然、全く出すことが出来ない。
「それもお前自身が血で汚れることなしに、だ。
 雛衣の、あの小さい手が汚れようとしたんだ。
 自分の妻を、自害させようとした――」
 そうだ。オーレは止まってしまった体全体に、その時の記憶が巡るのを感じた。恐ろしいことに――笑っていたような顔の動きがひどく生々しく甦る。そう、微かにだが――笑って、死ねと言った。
 愛する人に。
「全部本当のことじゃないか。お前はその時、凶悪な獅子だったんだ。お前が抱える星座のようにな。さながら盲目のあの女みたいに何も見えてなかったんだ」
 オーレの体の全ての水分が凍てついてしまったように、オーレは斬りつける冷たさを感じた。涙も出ない。
「そんなお前が今更何を言う? お前は雛衣に愛される資格もなければ礼連に父と呼ばれる資格もない。お前は早く死ぬべきなんだ」
 しかし、オーレは思う。
 しかし、雛衣は何も言わないから、自分はどうすることも出来ない。そして、運命の輪に乗ってしまっては死ぬことも、出来ない。
「お前のように穢れた存在を、どうして運命が必要としているんだ?
 お前は間違いさ、死ぬべきなんだよ。
 雛衣だってそう望んでいるんだ」
 ちがう。
 ちがうちがうちがう。
 オーレの手が、動いた。垂れ下った暗幕をはぎ取ろうと、全てを縛りつける声を痛みを、闇を壊そうと、風より速く――振り上げた。







 そして、気がつけば荒い息遣いをした自分が存在している現実が帰ってきた。あれだけ冷たかった恐ろしさの世界から一変して、現実は体が熱くなっていた。寝汗のぶん冷たいが、夢と似たような気味の悪い冷たさだった。
「王礼?」
 雛衣の声が左隣から聞こえた。オーレは震えた。鼓動が速くなりオーレを熱する。
「うなされてたから……。汗びっしょりよ。着替え、持ってきたわ」
 オーレは妻を見た。何も知らない、いたって普通の顔をしている。十年前よりいくらかふっくらとして、髪の毛も美しく内側に巻かれている。瞳は茶色で、頬は桃色、様々なところは十年前から変わらない。
 変わらない全てがオーレを痛みつける。
 雛衣は心配そうに眉根を寄せてオーレの肩に手をかけて服を脱がそうとする。
「いい」
 オーレの手が、雛衣の手を乱暴に跳ねのけた。その乱暴さが予想外に大きく、オーレ自身ひやりとして妻を見た。
 雛衣は少しばかり困っているようだ。ますます心配そうな顔つきになる。
「ごめん」
 顔を覆うように頭を抱えた。オーレは悔やんだ。
 自分でやるから、とすまなそうに夫は言う。
「城に帰って寝てて。ここは寝汗でひどいから」
「そう。わかったわ」
 そしてオーレは上半身を露にする。雛衣が扉を閉めて帰ってからも、オーレの鼓動は鎮まらなかった。小さく呻く肉の袋をしっかり包んだ胸板の上に、獅子の紋章が染みついていた。英雄に退治された凶悪な獅子の紋章が、オーレの体に纏わりついていた。

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