腕時計を見る。この前と同じく、ちょうど昼休みのようだった。
 あの声のことを忘れたくて、そしてまた偶然に亮と出逢えればと、しばらく喜備は運動場を駆け回る子供達を見ることにした。本当はいつあの声が甦るかと震えていたが、子供達の声がかき消してくれたのか、その声は聞こえてこなかった。そして、亮にも出逢えなかった。
 子供達は何も考えていなさそうな顔でボールを追っかけたり、遊んでいたり、とにかく、難しい思考などそこには一かけらも見当たらなかった。友達の価値だとか存在意義だとか、人間の浅ましい駆け引きだとか、疑心暗鬼だとか、入り込む隙間もない。入り込んだって笑顔の聖なる力できっと霧散してくれる。
 亮は、大人でありすぎるのだろう。小さな体だが、知能はもしかしなくとも喜備を凌駕する。彼はいつ大人になったのか。まだ子供なのに、彼は大人が背負っている人間の悪知恵や虚無や利己主義を、どこから仕入れてきたのだろう。
 彼には、今目の前ではしゃいでいる、純粋な子供の期間が、果たしてあったのだろうか。
(でも私、知ってるよ)
 あの笑顔よりももっともっと、嬉しそうに笑う彼の姿を、喜備はすぐ瞼の裏に浮かべられた。そして段々淵から涙が滲み出てくる。
 亮は大人なんかじゃない。子供だ。とびきりの笑顔で喜備と遊んでいる。
 だから離れないで。行かないで。独りになんかにならないで。
 亮くんは、私の、友達だから――
「お姉さん」
 ひっ、としゃっくりに似た声が飛び出て、喜備は後ずさった。亮の声ではない。知らない、しかし少年の声だ。目を擦って視界を鮮明にする。亮と同じくらいの背格好の少年がまじまじと喜備を見ていた。
「そんなところでこっち見てたら、不審者に間違えられるよ」
 喜備は苦笑した。少年の言い分は尤もだった。こんな所でさめざめと泣いている高校生はなかなかいないどころか、普通いないものだ。
「ごめんね」
 素直に頭を下げて謝った喜備に、ある提案が浮かぶ。
「ねえ、君、御法亮っていう子、知らないかな?」
 もしかしたら同級生かもしれない。が、亮が彼と同じクラスか、同学年かわからないし、亮が嘘をついていて、この学校が彼の学校ではないかもしれないし、だからこれはほんのちょっとした思いつきに過ぎなかった。しかしだ。
「知ってるよ」
「! ほ、本当に?」
 くじに当たったようなものだったので、何度も確かめる。少年はボールを弾ませるように何度も頷いてくれた。
「知ってるけど――お姉さんはあいつのこと何か知ってるの?」
「知ってる……っていうか」
 喜備は、次の言葉を言おうかどうか躊躇う。いや、躊躇うなんておかしなことだった。当たり前のこと、なのだから。きっとあの声の恐怖がそうさせているだけだ。
「友達、なんだ」
 たったそれだけの言葉に喜備はえらく苦労したが、少年の相槌はそれに見合うものではなく、風が通り過ぎるようにふうんと言っただけだった。喜備は、やっぱり苦笑してしまう。
「あいつさー学校、来てないんだ。知ってる?」
「うん。……知ってる」
「一年まるまる来てないんじゃねえかってくらい」
「ええ? そんなに?」
 これには思わず閉口してしまう。
「何回も家行ったけどさー。全然入れてくんないし。忍び込んだらビーッて警報鳴りそうで、そんで番犬が吠えたりするかもしんねえからそんなこと出来ねえし」
 警報に番犬など、亮の家はセキュリティが整っているんだなあと、喜備は特に疑問に思わず聞いていた。
「ていうか門とか塀が高くて登れないし」
「……何だかわからないけど大変なお家なのね」
「お姉さん友達なのにあいつん家のこと知らねえの?」
「? うん」
 友達なのに、に少々傷付いたが、本当のことなので仕方ない。
「まー行ってみればわかるよ。あいつん家何やってるかしんねーけど」
 少年は親切にも道順を教えてくれた。単純だったので、二、三回聞くだけでほぼルートが頭に描けた。
「心配なんだ。俺、委員長だから」
「クラスの?」
 うんと頷く少年は、よく見ると責任感に満ちた目をしていた。きらめいてもいた。
「そっかー。責任感強いんだね」
「あったりまえ。ねーお姉さん、友達ならあいつに学校来るように言っといてよ」
 いつかそれを言ったが、亮は聞かなかった。勉強がつまらないから、そして友達がいないから。でも、学校は勉強だけじゃない。友達がいないなら、作るよう努力すればいい。
「もうすぐ三学期も終わるけど、みんな待ってんだ」
 その為の環境は、学校は、亮のために開かれ、待っているのだ。
「元直ー何してんだー? もう昼休み終わっちゃうぜ」
「あー今行くー! そんじゃ」
 元直と呼ばれた少年は清々しい笑顔を喜備に見せて、友達たちに合流する。何か言われていたようだが、すぐに談笑になって、駆け出していく。
 きっとこれは、喜備だけの問題ではないのだ。喜備は元直少年の、待っていると言った時の顔を思い出す。すぐに笑顔は戻ったが、その瞬間陰りを見せたのは確かだった。
 行こう、と小学校を後にした。もうあの声のことはすっかり、忘れていた。

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