「私は、お前が彼らのことを思いやれない程、人情の無い人間だとは到底思えないがな」
 ただ春龍は目を瞬かせた。黄桜は窓に目をやるが、空の顔色は悪化している。だが雨の夜になることなどどうでもいいように、おもむろに話し始めた。
「お前の子供の頃がどんなに辛かったか、私も少しは知っているつもりだ。
 それを認めず否定してしまえば、あまりに少年時代のお前が可哀想というものだよ」
 黄桜は父と、手紙の交換や電話などでよく交際を続けていた。頻繁にではないが黄桜が欧州へ訪ねてくることもあった。彼の鋭いその目は海外の街並み、文化や気風だけではなく、幼い時分の春龍にも向けられていたのだと思うと、春龍はどこか恥ずかしいような、嬉しいような気分になる。
「だが、お前は誰にでも優しく、誠実であろうとした。
 龍司がそう育てたことも大きいだろうが、幼いお前にとっては、それが世を生き抜く唯一のヒントだったはずだ。それは、きっと今でも続いている。
 ――ヒントなどと言うと、また打算的だなどと言うかもしれないがな」
 そうじゃないか? と彼は真剣な目で問う。そんなの、子供の頃に抱いてた信念なんてわかるわけないじゃないですか――春龍はそう苦笑しながら言っていたかもしれない。喜備を突き放していなかったら、嘘をつき続けていたかもしれない。
 確かに子供の頃のことだから、本当はどうだったかなどわからない。喜備に語った通り、嫌なことが一杯あったし、どこかへ消えてしまいたいという絶望も抱いた日もあれば、空を眺めても良い気分になれない日だってあった。

 だけど、心の底では――自分は何を抱いていたのか。

 春龍は答えを見つけつつも力なく首を振る。
「そうですかね。それだって結局は見返りを期待して――」
「彼女が」
 春龍の言葉など聞こえないふりをして黄桜は声を重ねる。
「柳井喜備が、友達を――他者を想うことがそうであったように、お前もそうあったんだ」
 まあ私は、彼女のことをお前以上に知らないがな、と付け加えたが、それでも春龍は何も言えなかった。唇を噛んだり閉じたり、口を軽く開いたり、ただ無為な動きがあって、沈黙を塞ぐことが出来なかった。いや、言うべき言葉が見つからなかった。その静けさを春龍から奪うようにして黄桜は言った。
「人間は必ず、他者を求める。見返りなんか関係ない。
 ただ、独りでは生きていけないだけだ。
 お前はそれを小さい頃からわかっている。そこらの大人以上に、理解していたんだ」
 黙ったまま春龍はただ、その言葉を聞き届けた。やや目を丸くしてしまったのに気付き、それを隠すように俯く。黄桜は咳払いをして続けた。
「チェロの演奏も、お前が淹れる紅茶の味も、礼儀作法や言葉遣いや笑顔も、全部、誰かの為を想っている。
 お前の優しさで出来ている。偽善でも偽物でも何でもない」
 そんな風に否定する言説こそ嘘っぱち、幻だと、黄桜は幾分憤慨した様子を見せた。

「そういう風に、お前は出来ているんだ」

 春龍は押し黙る。しばらくして、根拠は? そう訊いた。声が、予想以上に低く暗い。だが春龍は狼狽えない。返事は無かった。

「どうしてそう言えるんですか!」

 どうして、と春龍は勢いで立ち上がる。少し前の憤慨は収まったのか、春龍の猛りに黄桜はいささか冷やかな目を向けた。だがその目には、証明する気などないという強い意志が表れていて、春龍は両方の拳を握った。黄桜は動じず、紅茶を飲んでいた。
 それを振り上げることは無かった。荷物を取って、口を真一文字に閉じて、自分達二人の存在感で錠がされた紅茶館を春龍は逃げるように、しかし確かな足取りで去っていった。

  3
続く
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