依然喜備は何も言えないでいた。言葉だけではなく、紅茶を飲むことも、窓の外に目を向けることも出来ない。影がその場に縛り付けられていた。だけど、逃げ出したかった。この事態に目を背けたかった。春龍は遠回しに、自分を追い出そうとしている。それは、温厚で思いやりのある彼の性格や、喜備の危機を救ったことや、落ち着かせるために頭を撫でてくれたことからは、とても考えられないことだったけれど――そこで、春龍の言葉を思い出した。
 本当の自分なんて、自分という存在がまず怪しいこと。つまりは、本当の自分なんてものが無いということ。喜備が持つ春龍のイメージは、本当は違うのだということ。
 喜備は何もかも信じたくなかった。強くそう思ったためか、呪縛は解けて席を立てた。春龍は窓の外を見ていて、こちらに目を向けない。僅かに見える横顔だけでは、彼の想いは計り知れなかった。申し訳なく、喜備は目を伏せる。
「先輩……ごめんなさい」
 無言で立ち去るのはさすがに失礼で、だけど、何を言えばいいのかわからない。その意味も含めたごめんなさいを、小声で伝えた。頭を下げもう一度春龍を見るが、彼は深く俯いている。途端に、最初に彼に出逢った時のように、このままにしてはおけない、おきたくないという直感が喜備を駆け巡った。だけどもう足は出入り口の方に向いてしまっていた。彼の方も、そんな喜備の想いなどどうでもいいと思っているかもしれない。本当は、最初に出逢った時から、そう思っていたかもしれない。
 その弱気な想像に、しかし反論出来なかった。喜備はそのまま、逃げるように紅茶館を後にした。まるで壊れた花瓶や道具の破片を、直すことも出来ずただ見ていることしか出来ないように。そしてやはり、どうすることも出来ずその場から離れてしまうように。
 罪悪感と無力感で見上げた空は、もう大分雲が空を覆っていて、あの快晴の青空が嘘のようだった。これから、憂鬱で重たい雨が降り続くと、何よりも一番に感じさせた。






 出入り口の鐘の音が鳴り終わって、耳の奥底からも音の余韻が消えた時に春龍は初めて顔を上げた。向こう側の席には誰もいない。空っぽの椅子が無言で彼と向かい合っていた。喜備が出ていったのだから当然のことだ。紅茶館には春龍だけがいることになる。当たり前のことだがしかし、そのことにどうしようもない程落ち込みを感じたことに、春龍は言い訳するつもりは全く無かった。全て自分の責任で自分の感情だ。
 こちらに近づいてくる足音が聞える。不思議に思って目を向けると黄桜だった。そうだ、この紅茶館は彼の店だ。渋い顔で見つめられ、あげく溜め息をつかされた。苦笑するが、苦笑さえもしていいものなのかどうか、今の春龍には迷うところだ。
「まったくお前と言う奴は」
 開口一番がそれですか、と眉尻を下げた。黄桜は立ったまま続ける。
「桃を使ったクッキーを作るのは少々難しいから、ババロアでも作ろうかと思っていたのに」
「何でいつも焼き菓子にこだわるんですか」
 春龍は笑うが、力無い。また目を伏せる。
「聞いていたなんて、趣味が悪いですよ」
「hearだ。listenではない」
 屁理屈を、とまた笑ってしまうが、心は晴れなかったし、ぎこちなさを感じていた。偽物の笑いだから当然だ。そして笑える気分などでは到底無かった。
「彼女からの電話の件だって、何が忙しかっただ。鳴っているのに出なかったのはお前の方だろう。――わざと無視するなんて、変だと思っていた」
 黄桜のことだからきっと、自分をからかう為に痛いところをついているのだと思う。だが春龍はそれに対する言い訳も困った微笑も見せることが出来なかった。黄桜はそんな春龍にさすがに愛想を尽かしたのか、何も言わない。これも結構寂しいなと思っていたら、黄桜は紅茶を二杯持って、さっきまで喜備が座っていた席に腰を下ろした。
「あんな風に彼女を突き放したのも、電話を取らなかったのも、訳があるんだろう」
 彼の目は鋭く、厳しくもあるが、どこか優しい光が見えた。思えばいつだって、何か悩みを抱えた際、彼からそういう眼差しを貰っていた。ことによると本当の父親よりも父性を感じる。だから自分は、彼の言葉に弱いのだ。分析している場合ではないのに春龍は妙に納得してしまった。
 紅茶を飲む。暖かさと香りが自然と春龍の言葉を運ばせた。心の底にあった、偽りではないまっさらな言葉がすうっと浮かんでくる。
「……あんなに、冷たく言うつもりは無かったんです」
 目を閉じれば、冷酷な自分が甦る。その度、胸がずきんと痛んだ。
「でも、彼女の内に眠る、もう一人の喜備さんという存在に、私の……冷たい部分を見破られるのが、怖かったんです」
 不必要に彼女を動揺させてしまった。ここに来るまで何があったか、正確なことを春龍は知らないが、それに似た恐怖をもう一度彼女に与えてしまったのではないか。そう推測できた。
「確かに、さっきのお前は酷かった。あんな風に、突き放すことは無かっただろうに」
 苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、黄桜は数回頷いた。
「だがそれが理由なら、隠し通しておけばよかったのに。見破られると決まったわけでないし、人間誰しも冷たい部分や譲れない部分があるに決まってる。
 彼女だってそれはわかってた筈だ。お前なら尚更。二人とも、子供じゃないんだ」
 残念そうな目を向けていたが、黄桜は春龍の言葉を促していた。春龍は一度力なく首を振った。
「十分子供ですよ。我儘だ。私は、あの一面を――人を信じられないという部分を隠したまま、彼女と友達でいたくなかったんです。その想いが、何故か強かった」
「リスクを冒してもか」
「……彼女には、誠実でありたかったんです」
 ある意味打算的でしょう? と自嘲するように春龍は笑った。黄桜はしかし、目立った反応を見せず、ただ紅茶を口に運んだだけだった。
 窓の向こうの雲行きは、なお悪くなっている。静かさに耐えきれず、春龍はまた言葉を、ためらいがちに紡いでいく。ただ語りたいままに、心は流れていく。
「でも……ひょっとすると私は、彼女が羨ましかったのかもしれません」
 少し目を閉じると、二人が出逢った学生食堂の光景が目蓋の裏に浮かんできた。思い返してみると、食堂とは非常にありふれた、どこか貧相にも見える場所だが、その可笑しさが不思議と心地よかった。回想の中で喜備は、恥ずかしそうに顔を少し赤らめながら、自分を呼びとめていた。

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