「最初はびっくりしましたよ。女の子が自分から声をかけてくるなんて。
 そりゃあ、からかいたい気持ちがまるで無かったと言えば、嘘になりますけど……」
「ほう。私にそれを言ったということは、彼女に伝えてもいいということかな」
「やめてくださいよ」
 自分でも思った以上に大きな声を出していたので春龍はさすがにはっとしてしまう。少し体も動いていた。失礼しました、としずしず体勢を整えるのを黄桜はやや微笑して見つめていた。きっと自分は赤面もしているのだろう。出逢ったばかりの彼女のように。

「はっきりとした人格を持つ、もう一人の自分に怯えながら」

 次に思い出したのは、初めて喜備達がこの紅茶館を訪れた日のこと。無残に割れたカップと床に染み込んだ血のような紅茶が、残酷に目の裏に映っていた。
 それが強烈過ぎて、言葉が止まる。そんな事態を引き起こしてしまうほど、その裏に眠る存在は強く、また彼女と共存することを拒み、攻撃している。春龍はつくづく、自分が彼女を薄情なまでに突き放したことを悔やんだし、付き合いを断っていたことにもすまなさを感じた。彼女に必要なのは、暖かで、傍にいてくれる存在だったはずだ。

「それでも……それでも友達を、誰かを想うことが出来る彼女が、私には羨ましかった」

 喜備の過去に何があったか、春龍は知らない。友人関係でものすごく辛いことがあったのかもしれないし、その逆で何も無く、凶暴な人格が宿ったのは彼女にとって全くの天災なのかもしれない。――亮はもう、彼女に何があったか、どうしてそうなったか調べはついただろうか。
 だがそんなハンディを背負いながらも、彼女は友達想いだった。彼女との付き合いはまだ短いものだが、彼女のその部分はよく伝わってきたし、十分な魅力である。だけど多重人格や人格障害など、そういう事態に陥って、どうなるのが基本なのかさえ春龍はわからないが、人間不信に至ることがあっても、おかしくないのではないだろうか。彼女がそういう病状に陥ってから、まだ日が浅いから表れていないのかもしれないが――春龍は力なく拳を握った。
「そんなことが到底できない私には……遠い存在に思えたんです」
 喜備と同じ事情を抱えているわけではない。けれど自分が偽善者であり過ぎることを苦痛に思い、人との付き合いに心の底では不安を覚えていることは、喜備を突き放したことで明らかだった。
 人に対して不信を抱き過ぎるきらいのある自分には、彼女のような、黒い何かに心の領域を奪われながらも、まっさらであろうとしている存在が眩し過ぎた。あるいは、重すぎた。あるいは、憎らしかった。――すべて正しいだろう。
「だから、あんな風に言ったんだろうと思います」
 まるで他人事のように言えてしまうことにも、春龍は言い知れない苦さを覚えた。
「自分が、嫌になります」
 黄桜の言う通り、全部、何もかも隠し通せばよかった。喜備のもう一つの人格が自分の心にある、弱くて黒いものを見破れるかどうかなんて確証は無いのだから。しかし、そう思って心中で彼は首を振った。
 そうしたくなかったのだ。黄桜に言った通り、自分は喜備に嘘をつきたくなかったのだ。

「十分友達想いじゃないか、お前も」

 黄桜のその答えは意外だった。いつものように何らかの苦言を呈してくると内心構えていた。彼の方も驚かせる気などなく、まるで本心で言ったようだった。いつものように、静かに紅茶を飲んでいる。春龍は一度瞬きをして、そう言えますでしょうか、と俯きながら呟いた。
「結局は、自分が可愛いだけじゃあないですか。
 ――相手がどれだけ傷付いているか考えないで、ただ、自分が傷付くことを恐れているだけですよ!」
 テーブルに手を勢いよく突いたから、がちゃんと茶器が音を立てた。そう激昂してもなお黄桜は涼しい顔をしていた。ほんの少し眉間に皺が寄った程度で、春龍は彼が何を思っているかやはり測りかねた。こんなの、自業自得ですと嘲笑して見せても、黄桜はそれに同意しない。自分の方が普段の彼のようにしかめっ面になってきたと意識した頃に、彼は紅茶のカップをそっと置いた。

「友の痛みが己の痛みだ。逆もしかり。違うか?」

 その言葉に、胸を軽く突かれたように感じた。ふわりと体が浮いたようにも感じ、目を瞬かせた。何を言うべきか戸惑い、ただ指を組む。
「こんな私に友達がいていいのでしょうか」
 出た言葉はやはり自己嫌悪を標榜していた。しかし、よくつく溜め息もつかず、真面目な顔をして黄桜はただ首を振った。
「何を言う。既に友達くらいいるだろう。
 イギリス、フランス、研究室の先輩後輩、いろいろだよ」
 返す言葉が見つからず、春龍は口を紡ぐ。確かに彼の言う通り、友好関係を築いている存在がいないことはなかった。顔が浮かんでくるし、それぞれにたとえ些細なことだとしても思い出があった。それらは付き合いの軽い、あるいは浅いと世間で括られるものかもしれないが、春龍は一応頷いた。黄桜もそれを待っていたように微笑して頷いた。

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