喜備の足取りは明るいものでも穏やかなものでもなく、迫りくる雨雲に急ぐわけでもなく、まるで夜を徘徊するように陰気なものであった。歩いている感覚もおぼろげで、自分がどこに向かっているかもわからなかった。頭の中では春龍とのやりとりが何度も繰り返される。暖かな笑みではなく、冷たい嘲笑に見える春龍にただ喜備は途方に暮れて悲しくなった。
 気がつくと三国市の繁華街、大庭の商店街に出ていた。居並ぶファッションビル、雑貨店、靴屋、喫茶店、占い館、書店、レコードショップ、クレープ屋、ゲームセンター、様々な店が軒を連ねている。何人も買い物客がショップバックを提げながら談笑し、喜備のもとを通り過ぎていく。チラシを配る店員は往来を行き交う人々に幾度も無視されながらも課された仕事をこなしている。街のラジオ局が流す音楽は辺りの空気を音で満たしていく。ふうと息をついて喜備は行き交う人の邪魔にならないように隅に寄った。
 目に映るものがぼんやりと、何もかも虚ろに見えた。意味を持っているのか、いないのか。持っていたとしても、それは喜備が勝手につけたものでないか。まるっきり逆の意味ではないのか。それもまた幻ではないのか。何が本当で、何が偽物なのか。
 イメージは雲のように形を変える。どれも正しいような気がしたし、また間違っているような気がした。雲は白いものだけが雲だろうか。林檎は赤いものだけが林檎だろうか。春龍の問いかけは、喜備の体をぐるぐる巡った。鈍く唇を噛んだ。やるせない味が口内にしみていく。
 何故か、何羽ものカラスが不吉にも占い館の方に飛んでいく。今の自分だったら、カラスを白いとも言えるのではないかと、さすがに不安に感じた。目眩もした。疲れているな、そう思うと急にぐったりと肩が重くなる。――こんな状態だと、またもう一人の自分から、自分の体を奪われそうになるかもしれない。いつ脅かされるか、たまったものではない。恐怖が徐々に膨らんできて、喜備は商店街を足早に歩き始めた。とにかく、動こうと思った。
 喜備がいたのは商店街大通りの北口だった。歩の進みはやはり悄然としていたが、一度「彼女」のことを考えてしまったからか――言い知れぬ影と不安を感じ、段々と足早になっていった。そのため、普通に歩くよりも何分か早く、南口の方まで出てしまうことになる。もう放課後なのだろう、近くの高校生や中学生達が食べ歩きをしていたり、店頭を覗いてははしゃいでいる。その若く瑞々しい声は、明るい印象とは裏腹に喜備の心をざらりと撫でる。いけない、と首を振った喜備の視界に、華やかな飾り付けがなされた台が姿を掠めた。よく見ると、携帯電話がずらりと並んでいる。橙色と白のボーダーの背景を見ると、たまたま携帯電話ショップ周辺に立ち止まったのだろう。女子高生達がこれいいな、とサンプルの電話をしげしげと眺めたり、いじったりしている。
(そうだ……誰かに、電話でもしよう)
 思い立って鞄の中から薄い桃色の携帯電話を取り出し、電話帳を開いてみた。今のこの鬱めいた心境から抜け出すには、誰かに何か話すことが一番だ――どこかわくわくしながら美羽のデータを開いたはいいものの、喜備の親指はボタンの上に軽く置かれたままぴたりと止まってしまった。発信ボタンを押せない。そのまま、あっちこっちに指を動かしていたがやがて意を決したように押したがしかし、耳にあてることなく、二回程度のコールで喜備は電話を切った。そのまま電源も落としてしまう。
 美羽に電話したところで、何を言うべきかわからなかった。何をどう説明したらいいのか。どこから話せばいいのか。春龍にさえも、今日起こった「彼女」との一件は、具体的な話をしなかった。二つの問題が肩に重くかかったようで、しゅんと項垂れた。
 言葉にしてしまえば、全てが現実になる。いや、喜備が体験してきたことは紛れもなく現実であるが、誰かに伝えたり、文字化したりすることで初めて、出来事は誰かと共有出来て、実態を持つ。言い出した以上、喜備も伝えた誰かも後戻りが出来なくなる。
 この先に進むのが、喜備はただ怖かった。

「……逃げてばっかりだ、私」

 初めて自分の中に眠る別の声を聴いた時からずっと、自分は逃走を続けている。そう言われればきっと、頷いてしまう。美羽と幹飛と友達であること、亮がまだまだ子供であってもいいこと、春龍が素晴らしい人格者であること――それらをそれぞれ相手に強要して、自分だけが自由の身でいるんじゃないか。ひょっとしたら自分は、そういう卑怯な、我儘な人間じゃないのか。優しいなんて、とんでもない。友達想いだなんて、あるわけない。
 唇を噛むことすら出来なかった。無力感はひたすら、喜備から言葉を奪っていった。自分が腹立たしく、また情けなくなって、力なく携帯電話を鞄に仕舞った。ふと腕時計を見る。時刻はもう夕方過ぎだったが、空は相変わらずの曇天色で日暮れらしい色はちっとも見えない。それでも、帰宅途中と見える会社員の人々の姿が街中にちらほら現れてきた。足早に帰路につく人が妙にせわしなくて、そっけない。喜備が善人であろうと悪人であろうと、中途半端な人物であろうと、どうでもいいと言わんばかりである。いや、実際そうだろう。喜備もそれらの人々のことを、よく知らないのだから。

「私は誰なんだろう」

 春龍は自分を誰も信じていない人間だと言ったが、それを否定してはいけないのだろうか。自分は彼の友達でいたいのに、駄目なのだろうか。そして、自分は喜備と言ってはいけないのだろうか。こんな不安定な自分が、喜備でない誰かの存在を、受け入れることは出来るのだろうか。
 どうして自分は、逃げてばかりなのだろう。どこかに光は、無いのだろうか。
 何とはなしに呟いた喜備の疑問は、暮れなずむ街に差す光と影の雑踏に掻き消された。家に帰ろう、そう諦めたように呟くと、カラスが数羽どこかへ飛んでいった。

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