水面を地にして浮かぶ女は、美禰子より少し背が高く、どことなく顔も大人びていた。目はきつい印象を与える釣り目で、髪もぎゅっと、何かを釣り上げるようにきつく縛られていて、束ねた髪が尻尾のように春の夜風に揺れている。体のラインが滑らかに見えるワンピースは地味にも見えるが品が良い。全体的に、誰が見ても器量はいいだろう。ただ、鼻が少し上を向いていて、完璧に美人と言えないのが残念だ。
「久し振り、美禰子」
 俺の方には目も向けず、ただ美禰子だけを見ていた。厳しい目だった。ここには自分と美禰子しかいないと一方的に決めつけている。多分彼女は実際にそう思っているに違いない。
「と……富子! 何で」
 富子と呼ばれた彼女は、その上向きの鼻を鳴らして美禰子を遥か彼方から見下すように笑った。空中で足を組む。二人の立場的な差が、わかりやすく現実に現れる。俺とワガハイが完全に空気扱いということも更にわかりやすくなる。
「何でって、あなたが再三の召喚に応じないから、わざわざ、わざわざ! 私がこうしてやって来ただけじゃない。手間かけさせないで欲しいわ。ほんと、あなたは昔っから……」
 言葉を抑揚させたり、肩を竦めたり、眉を曲げたり、富子の態度はいちいち大袈裟だった。そのわりに洗練されていた。こうするのが自分の当然するべきことなんだというくらい板についていた。つまりは嫌味な奴ということが、すんなり理解できた。だが話の内容はわからない。
「け……健三さんが、来るなって!」
 意外にも美禰子はここで、夫の名前を出した。……そういえば、さっきワガハイに研究所がどうとかって言っていた。
「召喚、っていうのは、研究所、の?」
「おそらく、そうじゃろうな」
 俺はその施設やそれに関する美禰子の事情、ましてや美禰子の夫のことなど何も知らない。しかし、美禰子の声に覇気が、無い。昨日の夜、今日の昼に聞いた張りのある声ではない。不穏さや危険を察知して美禰子はそれを覆そうとしたのではない――ただ弱った。絶対的な恐怖を前にした動物のように。
「富子達の『計画』は、危険だって! いけないことだって!」
「あら、そんなこと言ったの」
 ふん、とその鼻はまたせせら笑った。ますます美禰子や俺達が不当に格下へ下げられたかのような露骨な嫌悪感が胸に募った。ああ、苛立つ。なんか腹立つ。
「どうして? いい計画じゃない! 素晴らしい計画じゃない?」
 まるで役者がするように腕を大きく広げた。無論俺には何の話か解らないので苛立ちながらも、ただぼけっとポケットに手を突っ込んで聞いているより他がない。
 しかし、美禰子の様子のこともある。少しは真剣に、水上の女を見つめる。富子はこちらにようやく一瞥をくれた。今まで無いが如くの振舞だったからすぐに顔を美禰子によこすかと思えば――ほんの十数秒、俺をじっと見た。
「夏目坂さんね……いい加減折れて欲しいものだわ」
 しかしすぐに視線を戻し、彼女は体勢を直す。物憂げな溜息をついて半眼で美禰子を捕える。その目には一種の優越感が閃いていた。とてもじゃないが物憂げな溜息をつく権利はない。
「……なあ、何の話なんだ?」
「魔法の研究所――喜久井研究所の話じゃろう」
 興味がない、と言わんばかりの口吻だった。しかしワガハイはそこから動かない。
「魔法のねえ」
 再び富子と美禰子を見た。その時美禰子は、今まで抑えつけていた通常通りの――俺がわかる範囲での――元気さを取り戻すようにきつく目を閉じ、開く。それからその元気を鋭利な武器に仕立て上げた。美禰子は、強く富子を睨んで吠えた。
「健三さんは絶対、協力なんかしないんだから! 何で私が呼ばれるのかわかんないけど、私だって行かないんだから! べーっ!」
 舌を出す美禰子を見て、その子供っぽさに今更だけどとても人妻とは思えなかった。
「行かないならこっちが無理に連れ出すだけよ?」
 魔法で――俺は勝手にその言葉に継ぎ足す。
 美禰子は不意に笑った。それは富子が持っている優越感を奪い取ったような笑いだった。嘲りの笑いだった。何故か、理由を美禰子は言わなかった。ただこう言った。
「魔法なんてなくたって、生きていけるもの」
 目を瞬かせる俺。美禰子がこっちを見たような気がするがさすがにそれは気のせいだろう。それはともかくとして、だ。
「体や精神に負担をかける技術を研究して、国民にそれを押し付けて無理に習得させるより、もっともっと教育の方面を良くしたり、労働者のことを考えたり、Fの世界みたいな科学技術を活用できるようになった方がいいって」
 そうだ。俺は「魔法なんかない世界」に生きているのだ。色々と魔法を見た今でさえもも、ないと考えられる世界に生きているのだ。建前上。科学技術を活用して成り立っている世界に、俺はいる。

 魔法なんかなくても、俺はここまで生きてきた。

「健三さんはそう言ってた。魔法をなくせとは言わないけど、そう言ってた!」
 それはもしかすると、美禰子達でも同じことなのかもしれない。
 俺の勝手な思考のことなど知らず、一気に美禰子は言葉を並べ立てた。その間中美禰子は多分ずっと富子を見ていた。俺も美禰子の啖呵を特に何も考えず聞きながら、富子を見ていた。――彼女の顔が明らかに不愉快な方面に変わっていったことも、美禰子は気付いているんだろうか?

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