興奮で見えなくなったことも考えられる。富子はうんと冷めた表情に染まりきっていた。まるで、自分の顔ではなく、仮面をつけていると言わんばかりに、何も無い。そのくせ、瞳に往来する感情のきらめきは明らかに怒りや侮辱に対する恨みの色を帯びていた。美禰子の言葉の所為だということは簡単にたどり着ける結論だ。
「おいみね――」
「ふざけないでよ」
 俺は再び富子を見る。冷たさは急激に熱にとってかわった。顎から額までの全細胞が怒りを掲げていると言っても言い過ぎではあるまい。美禰子もこれはやばいと思ったのか、さっきまでの興奮を捨てた。そうして彼女がまた怯える動物に戻るまで、そう時間はかからなかった。
「そんなのは、魔法の使えるあんたたちの言い分でしょ」
 富子の声は呪詛そのものだった。
「私は魔法が使えないわよ、残念ながら」
 睨む目は、その言葉を覆すような、とてつもない魔力が込められている気がした。
「そうよ、魔法が使えない落ちこぼれ以下の落ちこぼれよ! 喜久井の才女は欠陥品、呪われた子、あっはっはっは!」
 夜中の屋外だというのに、水面に寝そべるくらい胸を張って富子は笑う。何かの針や歯車が狂い出したのは、間違いない。
「あんたや夏目坂はそんなこと言っていい子ぶりたい偽善者でしかないのよ、こっちから言わせると。偽善者なんて言葉は高尚ねえ、ああ、悪よ悪、絶対悪!
 自分達の持つものがどれだけ貴重で魅力的なものか解ってる? 解ってないわ解ってない解ってない!
 持たざる者の心境なんかこれっぽっちも解ろうとしてない、愚か者愚か者!」
 散弾銃のように言葉を撃ち続ける。美禰子も俺も呆然と立ちすくむ。言葉で体に、穴が開く。
「魔法がなくたって生きていける? そんなのは嘘。でたらめに決まってる。fの世界から魔法を抜いたら何が残るの? 年々魔法使いは少なくなっているって言うのに。Fの世界と同じになるだけじゃない? 世界はF+fで成り立つんじゃないの? その根本を覆そうとしているこいつらは反逆者! 世界の破壊者!」
 近所迷惑なんのその――富子は叫ぶ。犬の遠吠えのように夜に響く。不思議に誰も文句を言いに来ない。何か力が働いているのか? 俺は感じる。
「美禰子」
 激情の奔流は、突然に止まる。息がつまったようなそれをぴたりと止めたのは、美禰子の名前だ。発したのは、富子自身。
 言葉の連打で美禰子を穴だらけにした次は何をしようと言うのだろう。その穴に憎悪で熱した針を通していくように、ぎりりと彼女は美禰子を睨み続けた。美禰子を握りつぶしているのだとばかりにぎゅっと拳も握られる。

 あいつは何を考えているんだ?
 何を、美禰子に見てるんだ?

 彼女は何かを呟いたよう。だけど無理だ。俺に聞こえるはずもない。距離もある。小さすぎる。ただ彼女を焦がす熱しか伝わらない。

「あんたが……憎くて、憎くて」

 声がようやく聞き取れた頃にはもう遅い。富子を止められなかった。富子は服の内ポケットから何かを取り出した。暗くてよく見えないが、それはトランプのカードのようなものだった。
「あれは――魔法を使う気か」
「魔法って――あいつ今の話を聞く限り魔法は使えないんじゃ」
「あのカードは、火を起こすためのマッチやライターと同じ。魔法の代用品じゃ」
 美禰子はまだ立ち尽くしている。取り返しのつかないことをした。何気ない言葉は美禰子の意図を離れて暴力と変化したことを、ただ壊れた富子を憔悴した様子で見つめるほかない。
「こんな奴はね!」
 カードが立ち消えた。富子の隣に、何かが現れる。
 人間だった。立ってはいない。首吊りでもしているように、だらんと項垂れたまま宙に浮かんでいた。男だ。項垂れている所為で、顔や背丈はわからない。せいぜい頭が七三分けかと解る程度だった。だけど、俺はこの男のことを知っている気がした。――あくまで直感で、俺の体がいつかその存在を、どこかで触れたようなことがあった気がする。

「――え……健三、さん!」

 怯えた美禰子の声が、その男の正体を暴露する。
 俺は美禰子の表情を伺ってもう一度男を見る。

 健三? 美禰子の……この男が、美禰子の夫? 生涯添い遂げると決めた男?

「あんたの、あんたの一番大事にしてる、こんな男なんか!」
 美禰子の顔は驚きと怯えと後悔が乱暴に放り込まれていた。様々な負の感情が錯綜する中でそれでも夫を心配していることだけは、俺には確かにわかる。
「いいえ……美禰子……あんたなんか、あんたなんか!」
「やめて! 何するの!」
 美禰子は駆けだした。
 しかし間に合わない。

「こうしてやるのよおっ!」

 もう一枚、カードを放った。そして健三に張り付き――消えた。

 その瞬間、紫とも青とも黒ともつかない、しかし極めて陰惨な光と生温い風が円状に走った。思わず目を閉じた。少し目を開くと――そこに健三さんはいなかった。少なくとも男の人影は無い。
 かわりにいるのは――何か、もこもこした、動くモノだった。それも、うじゃうじゃいる。うじゃうじゃうじゃうじゃ、宙に浮かんだり地面に転がってじたばたしていたりしている。
 その何かは、小型の――羊だった。

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