「ひつじ……?」
 眠れない時に羊を百数えるという習慣があるが、ちょうどその羊だった。絵本や紙芝居に出てくるようなデフォルメされた羊は、百匹近くいるに違いない。一匹ずつ手に掴むことも容易に見える。
「私達の計画に背いた罰よ」
 その富子の声は、してやったり、とも言っている風に聞こえた。
「夏目坂さんはすっかり、『ストレイ・シープ』に変わっちゃったわねえ」
 富子は次にビー玉でも入っていそうな袋を取り出して、中身をぶちまけた。その量は多かった。しかしそれも爆発的な、陰惨ではないが強烈な光と風と共にすぐに羊たちに吸収されたように見えた。だからその量が具体的にどれくらいか、それ自体が何なのか俺は判断できなかった。

 が、それだけではない。というのも、俺の体がにわかに熱く沸きだったからだ。内側のあらゆる筋肉が収縮と緊張を一時に繰り返し、また精神的には夢を見ているような心地よさが一時に俺を沈ませた。そうしてすぐ、戻ってきた。

 何だったんだ、今のは。

「あれは、魔法の種――トチメンボーか」
「ああ、癪ね癪ね」
 ふんっと袋を投げ捨て富子はふんぞり返る。
「トチメンボーを使っても私は魔法を使えないっていうのに、なーんでこんな羊ごときに魔法を与えなきゃいけないの。それもこれも全部夏目坂の所為」
 そうでしょ美禰子? 富子は微妙にひきつった軽い笑いを浮かべる。狂いの笑み。行き過ぎてしまった笑み。
「あなたのだーいすきな旦那様は、こうして無数の羊になっちゃったわ。どう? これで眠れない夜は大丈夫ね、この子達を数えればいいんだもの。あら、目を閉じなきゃ眠れないわね。あっはは。
 ほら、逃げていくわよ、夏目坂さんだった羊たちは。元に戻さなきゃ? ねえ?
 悔しかったら捕まえて元に戻してみろって言ってんのよ!」
 ねえ! しなさいよ! しなさいってば!
 静かな池の上、富子の激高はただただ轟く。
「集めりゃ元に戻るのよ、私って優しいと思わない? ねえ、何とか言いなさいよ!」
 富子は宙を蹴った。俺はここで初めて、駆けだしてそのまま止まった美禰子を見た。

 美禰子は――口をほんの少し開けたまま硬直していた。

 そして――涙が一筋、流れた。

 瞬間。連動するように、俺の中を流れる血液が、熱く、煮えたぎった。
 俺は息をのんだ。
 この血脈に沿う感情はなんだ?
 驚き? 焦り? 怒り? あるいは怒りであっているかもしれない。水上で狂う、鼻が醜い女に対しての。あるいは――美禰子を守りたいという、愛情に近い何か。

 そういえば俺は、美禰子が好きだったんだ。

「何とか言いなさいって言ってん――」
「そこまで」
 俺が――俺でなくなる。体中が熱い。内側から火をつけられたように熱い。俺が俺の中でもがく。何かに抑えつけられている。強烈な力に。
 俺は、その熱さを慣らす為に少し屈んだ。

「そこまでする必要――ないんじゃないのか」
 そしてゆらり、立ち上がる。

 額に、青く光る何かが浮かぶ。途端に光は肌を疾風の如く駆け回る。それは曲線でもあり円でもあり交差する線でもあり歪む線でもあり捩れる線でもあり――見る者を呪術的な惑わしにかけさせるようなものだった。体内の熱さは光と同じ軌道で、骨や神経や血管や肉壁や臓器を照らし、全てを熱くして走る。
 目が眩む。酔いがにわかに起こる。これ以上立っていられない。そんな具合に。
 そして足元に広がるのは、青い閃光で描かれた曲線と直線が組み合わさる、奇妙極まりない図形。

 きっと、魔法陣と呼ばれるものだ。

「え……」
 富子はあからさまに狼狽する。
「ま、まさか魔法……」
 こんな展開は予想していなかったと、汗を流す。

「な、なによ……なによ! Fの人間のくせしてッ……!」

 足元から、妖精のように舞う光が顔を照らす。目の辺りが自然に陰をつくると、辛苦や憤怒や焦燥が、踊り出す。
 感情、イメージの乱発。
 体中に縫い付けられた青い光の尾が全てをさらけ出す。

 俺の中に、あるもの。
 俺の中になかったものでさえも。

「ま、ほう――!」
「美禰子に返してやれッ!」

 怒声が刹那を埋め尽くす。
 池が、水が、湧き上がる。
 踊るように狂うように自由に駆け巡る水が禍々しさを纏い、狂気の凶器に変化して、水面に浮かぶ富子に――襲いかかる。

「やめてえっ!」

 その次の刹那も俺が主役だったならば、間違いなく富子は池に沈んでいた。俺が俺でないくらいに殺気立ち荒れている今なら水責めを通り越して水没死させられたはずだ。

 しかし、次の刹那の主役は――美禰子だった。

 美禰子の体の中央から金色の光が溢れ出す。溢れ出すなんて可愛いものじゃない。光線のように強く迸った。俺も富子もワガハイも包む。まるで昼だ。その中で、水の竜や蛇達が総崩れになり水蒸気となりかき消える。夢中で放った俺の凶器は文字通り霧散した。夢が終わったようだと、そんな浪漫的なことも目まぐるしい一瞬のうちに頭に去来した。
 興奮が高ぶっていて、何もかもを全て攻撃してやるという深刻な信念の中で俺の目は思い切り開いていた。が、その光の所為で、目への痛みが閾値を越えた。黄金の光にやられ――目を閉じる。きつく閉じる。

 富子はどうなったか知らない。近所の人たちがどう思ったかもしらない。そして、俺自身も――俺がどうなったか知らなかった。


 全ては刹那に、黄金色の中で、決まった。


  3
はじまりのまほう 5に続く
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