「旦那……って?」
「そのままの意味じゃ」
「……旦那って……亭主? 夫? 旦那、さん?」
 ワガハイは頷いた。俺はまた瞬いた。
「美禰子は結婚してるってことなのか?」
 あまりに意外だった。俺は美禰子を見た。美禰子の顔色は明らかにさっきとは違っていた。元気そうではなく、さっきの映画の余韻に浸っている風でもない。一気に老けてしまったようだった。
 俺の見間違い? それとも気のせい?

 美禰子が、妻?
 奥さん?

 してるよ。そう、美禰子はどこか気弱げに呟いた。

「旦那さん、いるよ。健三さんっていうの」

 そして膝を抱える。その美禰子の姿は俺があまり望まないものだった。今日の昼間からずっと見せていた無邪気で子供のようで愛らしい姿が一番美禰子だった。
 美禰子に会って一日にも満たないが、あれが彼女の平常の姿だと、俺は信じて疑わなかった。だから今、溜息をついたりその息を消すように膝に顔を押し付けたりしているのは全く適当じゃなかった。
 何より、美禰子が誰かと婚姻関係にあること、誰かと一つ屋根の下で生活していること、もっと即物的な言い方をしてしまうと、もう誰かのものであることが、一番そぐわなかった。まだ少女にしか見えない。俺も知らないけど――男女の恋愛における駆け引きや上手な付き合い方とかすら、知らないように見える。
「あのね、ワガハイ」
 俺が今まで知らなかった顔を見せる。誰かを心配する表情。俺ではない誰か。その人と寄りそって自分は生きているのだと言う、そんな切なさが、今ものを言う。

「……健三さんね、最近研究所からの帰りが遅いの。
 何か、困ったことに巻き込まれてないといいんだけど……」

 その声は美禰子のものだった。そしてそこに込められた愛情も心配も、美禰子のものに違いなかった。美禰子の真心だった。真実だった。今日一日、たった一日だけど、俺は美禰子と過ごしたから、その情に曇りも瑕もないことを信じられた。
 本当に、その人――健三さんのことを、愛している。
 思春期特有の性への興味はあれど、人を愛するとか、恋するとか、色恋沙汰のいろんなことをまだ本当はよく知らない俺だ。言ってみれば中学生に毛が生えた程度の高校生なのに、けれども、わかってしまう。例えば自分の両親が両親である前に、お互い恋人同士であると言う前提を今更ながら気付いたように。

 それくらい自然だった。
 美禰子が俺ではない、誰か別の人を愛していることが。

 俺は、俺自身に谷底へ突き落とされそうになった。
 そして落ちる寸前に――言った。

「……なら、早く帰ってやれよ」

 愛しているんだろう、俺のことなんか霞むくらいに。
 霞む? いや、どうでもいい、か?
 いいや、最初から意識すらしていないくらいに。

 そう結論付けた時には、俺は美禰子に言葉をかけていた。美禰子は伏せていた顔を少し上げる。突然の俺の声に戸惑った様子であるものの、瞳が幾分煌めいて見えた。さっきまでは丸々としていて、驚きと感動に輝いていたそれは、今は言いしれぬ郷愁を呼ぶかのような切ない光を帯びていた。
 尤もそれは、俺の思い込みに過ぎないのかもしれない。俺の胸にある切なさが、投じられているだけなのかもしれない。けれど。
「奥さんであるお前が家で待ってなくて、どうするんだよ」
 胸がゆっくりと、鳴る。浮かべた微笑はその波紋だ。
「お前が待っているように、その健三さんもお前が家にいることを期待しているんだ」
 郷愁。普段自分が暮らしている家に抱くものなのかどうかはわからないけど、美禰子がいなくなっていたら、悲しむだろう。心配するだろう。その夫である人は。
「俺にはよくわかんないけど、家族ってそういうもんだろ? 夫婦も、おんなじだろ?」
 俺と目が合うくらいにまで、美禰子は顔をしゃんと上げていた。昼間、俺を偉いと褒めた時のように、――そこだけにしかない、掛け替えのないものを見つけ出したという風な目を向けて――ほんの少し笑った。
 そう、だね。そう、最初はおずおずと。

「そうだね……そうだね!」

 数秒もいらない。笑顔は一気に弾けた。

 美禰子は萎れていたような体を奮起させるように立ち上がった。もうすっかり俺の知っている美禰子だった。今日という短い期間で知ることができた彼女の全てが、一度に復活したんじゃないかというくらい、俺には瑞々しく、眩しく見えた。

 ――俺は、きっと。

 美禰子とワガハイが縁側に出る。俺も後ろから続いた。
「美禰子」
「なーに?」
「今日は楽しかった。課題も終わったし、カレーも美味かったし、映画も面白かった」
 美禰子は首を傾げながらこちらに体を向ける。
「課題は三四郎がやったんだし……カレーは誰だって美味しく作れるよ?」
「でも、美味しかった」
「映画も私が作ったんじゃないよ?」
「でも、面白かった」
 困ったように、美禰子は笑った。そしてそのまま微笑したまま、別の笑顔を見せた。他の感情が付随しない、純粋なものだった。

「ありがとう」

 その笑顔を見て、何となく俺は気付く。
 ずっとずっと、気付けないものだった。

(そっか)

 意識の俎上に、乗ることすらなかった。

(俺、もしかして今までずっと寂しかったのかな)

 俺が今まで経験した食卓というものは総じて寂しいものだった。皆が集まっているところでテレビは見てはいけないし、食事中の会話も禁じられていた。料理だけは暖かかったから、逆に外側の冷たさを際立たせた。だけど、今日のカレーより美味しいものは無かった気がする。
 映画だって同じだ。一緒に見るような家族は誰一人いなかった。どんな内容のものでも、家で見るとちっとも面白くなかった。誰かと一緒に見ることでこんなに面白くなるとはとても思えなかった。
 そんなわけで、与次郎達と過ごす時間は別として、家に一人でいる時は、つまらないな、とは感じていた。兄貴達は自分達のことで忙しいし、親父には最初から期待していない。俺が家でしていたことは、勉強したり、一人で漫画を読んだり本を読んだり、たまにテレビを見たり、そんなこと。あとは飯を食べる、眠る。
 誰も話す相手はいなくて、笑い合うことなんてもっとない。今まで生きた十五年、記憶らしい記憶が全然ないような気さえしてきた。実際、そうなのかもしれない。
 俺はその寂しさを、つまらなさと取り替えて感じていたのだろう。
 仕方ないや、俺はそんな風に、自分のことを思ってきた。それは別に悪い意味ではない。悲観とか諦めとかじゃないと思う。でも、ずっとそう思っている内に、俺の中の寂しさや人恋しさを感じる部分がどんどん薄っぺらくなってしまった。そう考えてもおかしくないと思う。
 だけど、ここに来て、ワガハイと再会して、そして美禰子に出会ってしまった。
 今日、たった一日だけだけど、こんなに楽しく過ごせた。
 出会ったばかりの美禰子が、それをくれた。
 友達でも何でもなかったはずで、むしろ美禰子は旦那さんがいる人妻のはずなのに、そんな壁を感じさせずに俺に接してくれた。
 一人だったら、あの家に残っていたら、きっと感じられなかった楽しさや、暖かさ。

 まるで、魔法のような時間だった。

(もしかしたら)
 知らず俺は、微かに目を細める。

(俺、こういうの、待ってたのかもな)

 そう、俺はずっと、待っていたのかもしれない。家族と呼べる人がくれる暖かさを。俺はずっと求めていたのかもしれない。自分で作り上げた薄暗いじめじめした所で、母猫や兄弟達とはぐれた仔猫のように、にゃあにゃあ鳴いて――泣いていたのかもしれない。
 今、俺はまた一人になってしまう。いや、ワガハイがいてくれる。だけど美禰子はもうここには来ないかもしれない。
 胸が、ぎゅっと締め付けられる。
 寂しさが、まるで胸の奥で生きているように。
 いや、と俺は一人首を振る。今日だけで、俺は沢山の物を得た。それは人間が成長していく上で、必ず手に入れるべきものだったと思う。俺はここでようやくそれを胸にしまえた。彼女が帰って、二度とここに現れなくても、一人と一匹、ワガハイと一緒に喋ったりテレビを見て食事したりするくらいは、出来るような気がする。そうやって暮らしていく中で、今まで使わなかった笑顔の筋肉が、少し柔らかくなるかもしれない。

 今日一日のことが全部夢で、ワガハイがただの猫で、美禰子が幻だったとしても、そうなるような気がする。
 彼女のありがとうと言った時の笑顔が鮮やかに頭の中に咲く。散ることはない。だから俺はようやく胸で呟ける。

 俺はきっと、美禰子のことが好きなんだろう。

「旦那さん……健三さんによろしくな」
 だけど美禰子にはもう決まった相手がいる。愛し、心配し、想うだけで、彼女の陽の気を全てつぎ込もうとする程の相手は、結婚という揺るぎない儀式と絆で美禰子と繋がっていた。

 俺のことなんてきっと、すぐに忘れる。
 諦めたほうがいい。その方が楽だ。

 後戻りが出来る恋。池の前まで来た時、俺は脳内から美禰子を摘み取る覚悟が出来ていた。
 うん、とらしくなく、美禰子はどこか言い淀む。だけど次の言葉で湿っぽい雰囲気を切りかえようと、可憐にくるんっとこちらを振り向いた。

「また、遊びに来るね!」

 美禰子はもう一度混じりけのない笑顔を見せた。
 魔法なんかじゃない笑顔が眩しい――そう、眩しかった。――物理的に。

 池が爆発的に光輝きだし、何だろうと美禰子が振り返った時にはもう光は収まっていた。しかしそちら――池の水面には、知らない女が浮かんでいた。

 2
はじまりのまほう 4に続く
ワガマホトップ
小説トップ

inserted by FC2 system