そして春の日は暮れていく。人語を喋る猫がいても、魔法使いがいても、世界はその程度のことではちっともひるまなかった。当たり前に空には星が浮かび始めていた。だったら世界にはまだまだ人間が驚くような謎や不思議が案外平然と存在しているのかもしれない。
「よし! せっかくだから、私がごはん作ってあげるよ!」
 そう意気込んで美禰子は立ち上がった。課題はとうの昔に片付いていた。残りの時間を埋めたのはこれからの予習と復習と少しの居眠りの繰り返しで、ちょうど腹の減り具合も気になっていた頃だった。日も暮れたことだから、夕食にはいい塩梅の時間帯だ。
「ちょっと待った。この家には自慢じゃないがまだ食材はないぞ、米以外」
 と、掌を美禰子の顔の前に突き出して彼女の意気を少しくじいた……はずだったが、美禰子は変わらず笑っていたし、その色には幾分得意の感があるようにも見えた。
「へっへーん。私は魔法使いなんだよ、三四郎くん」
「ということは」
 俺の想像は容易だった。
 魔法のステッキが現れて、美禰子がそれを振るとしゃらん、と小気味よい音が鳴って、星屑のような細かい光が灯って消え、そしてただのテーブルが、食卓に変化する――みたいな、絵本やテレビで出てきそうな魔法を使ってくれるのだろう。我ながら陳腐な発想であるが、期待して罰は当たるまい。
 美禰子は得意げな顔を崩さず空中で右腕を振り下ろす。ブンという音と共に、彼女の手に杖らしきものが現れた。魔法の杖というよりはやはりステッキと言う方が近い――一メートル弱くらい、飴色の光沢がつやつやしたものだ。俺は思わずおおと感慨深く呟く。随分と魔法使いらしいじゃないか。やっぱりアイテムは重要だ。一気に度合いが増すってもんだ。
 そこまではよかった。美禰子がえいっと杖を振る。すると、映像効果も、音響効果も何もなく、ただ空中にパッと何かが現れ、ぼとぼとっと畳の上に落ちる。これは、と下を覗きこんだ。
 じゃがいも。玉葱。人参。牛肉のパック。そしてカレーのルー、らしきもの。
「カレー……の材料?」
「えへへー今うちの冷蔵庫カレーの材料しかなくって」
 いやーお恥ずかしい、と頬を掻く美禰子に俺は首を傾げるよりない。
「魔法使いだろ? 完成品を出せばいいじゃんか」
「残念でしたー。私程度の魔法使いだったらせいぜい材料を呼び寄せることくらいしか出来ないよお」
 説明しながら美禰子は杖を小脇に挟み野菜を拾う。俺はカレールーらしきものを拾った。こちらと同じような意匠で売られているらしい。驚いたことに言語が一緒だった。カレーはカタカナで書かれていて、その上に英文字でも何か書かれている。ひらがなも漢字も見つかった。
「それに魔法で出すものってねー、総じて不味いらしんだよ。もっとレベルの高い人だったら美味しいもの出せるんだろうけど」
「ふうん……魔法ってのはオールマイティなもんだと思ってた」
「あほぬかせ」
 ワガハイはうーんと気持ちよさそうに伸びをしながら欠伸ついでに言う。長い昼寝からようやく目覚めたらしい。猫としてはこれからが昼なのだろう。
「この世に万能は無い、何事にも程度があるもんじゃ」
「じゃ、美禰子の今の魔法はせいぜい取り寄せバッグ程度ってことか……それでも大分すごいけどな」
 取り寄せバッグ? と美禰子は玉葱と人参を持ちながら疑問を示したがすぐに台所借りるねーと台所へ駆けた。案内のために俺も出た。




 ご飯を作ってあげるという筋書きで読めるオチはとんでもなく不味いかとんでもなく上手いかのどちらかである。で、美禰子はその活発で愛らしい様子から、前者が当たって俺とワガハイにとんでもない被害を与えることになるんじゃないかと危惧していたが、俺の読みは外れた。
 意外にも、美味しかった。けど、カレーなんて誰だって美味しく作れるものだと気付いたのはその数秒後だったけど――美禰子だから、俺には美味しかった。あくまでもそんな気がした。
「美味しい?」
「カレーなんぞ誰だって美味しく作れるわい」
「むっ。……あ、でも、美味しいってことだよね!」
 やたっ、と笑顔で軽く手を叩く。ワガハイも食べているというのが意外だ。玉葱なんて、猫にも犬にもかなり毒のような気もするんだが……魔法使いだからいいか、という解釈を踏まえて、俺は皮肉な笑いを浮かべた。
「美味しくないなら、取り上げるそー。お前、猫なんだから」
 んにゃっ! と不意打ちを食らったように鳴く猫の小気味いいことこの上ない。
「米だってちょっとしか持ってこなかったんだぜー。猫はカリカリとか魚とかネズミで十分十分」
「吾輩は魔法使いであるぞ。人間と同じものを食べたほうが魔力にはいいんじゃ!」
「あれー? ワガハイって猫缶好きじゃなかったの? ほら確か、ここから三軒前と二軒後ろのおうちで……」
「みーねーこっ!」
 してやったり、と俺は笑った。美禰子も気持ちよさそうに笑っていた。きっと俺と同じような気持ちだろう。偉そうなワガハイを打ち負かしたのはうんと爽快だ。
「あ、テレビつけていーい?」
 返事も待たず美禰子はテレビをつけた。あっちの世界にもテレビはあるんだろうか……冷蔵庫がある時点であってもおかしくはないか。一人合点する意味も含めて俺は頷いた。
「音楽、おんがく……あった。Fで流行ってる音楽聴いてみたくって」
「そう」
 チャンネルをあわせた音楽番組は特に好きなグループが出ているわけではなかったが、美禰子はスプーンを口に銜えたまま熱心に見ていたので、俺もぼーっと見ていた。コマーシャルの間に食器を台所に置きにいく。戻ってくるともう番組は終わっていた。美禰子はずっと見ていた。ギターの音色がかっこいい番組のテーマソングに、少し体を揺らしていた。もうすぐ、九時だ。
「あー面白かった。ねえねえ、次なんか面白いのない?」
「ん……映画あるけど。チャンネル、変えるぞ」
 宣言通りチャンネルを変える。俺にとっては空気以下の存在であるコマーシャルですら美禰子はじっと見ている。お茶と茶菓子を適当に見つくろって俺達は映画を見始めた。
 よくある砂漠での宝探しがテーマの映画だった。ピラミッドの中には危険がいっぱいでトレジャーハンターの二人をあの手この手で行く手を阻む――
「わっ! あぶない」
「おー、ありゃ怖いな」
 お約束通り宝を狙う敵が現れて、しかしその危機から二人を助ける謎の人物が現れ――
「かっこいいっ!」
「へえ……」
 そして二人はついに宝の眠るピラミッドの深部へ――と、なんともエンターテイメント性の高いアクション映画であった。展開や演技や映像の特殊技術は、少し古い映画の所為か特にこれといって目立つものはなかった。
 だけど妙に面白かったのは、美禰子のおかげだろう。魔法使いである彼女はどういう魔法や作戦でここを切りぬけ、あの装置を作動できるだろうか、とか、その割に子供のように純粋に感動しているなあとか、目が随分きらきらしているなあ、とか、暗めの金色の目だけど、多分黒目がちっていうのはこういうのなんだろうなあとか、可愛い目だよなあとか、まつげ、結構多くて長いんじゃないかなあ、とか――映画というよりも美禰子の一挙一動、顔のつくりの観察に俺の楽しみはあった。
 ああ、面白かったあと美禰子は仰向けに転がった。映画が終わったということは、もう短針は十一の数字を指している頃になったということだ。まだ壁掛けの時計はここにはない。だけど、もうそんな時間かと一応思いつつ頬杖を突く。
 あっというまに、一日が終わってしまった。考えてみれば猫が喋ったり魔法使いだったり……一生で出逢う全ての非常識とファンタジーに遭遇した感覚が俺の頭の中をぐるぐる回って、俺をその中に無理やり押し込ませようとする。もう平穏で平凡な日常は金輪際やってこないのだ。そうにやにや笑って脅してくる。

(……でも)

 それでもいいかと、少し思う。俺はちらりと仰向けのままの美禰子を見た。
 心なしか、少し表情に陰りが見えた。心地良い疲れに弛緩しているとは言い難い。立ってないけど、眠気や立ち眩みみたいなものが彼女の体を痺れさせてる? 暢気に、俺は首を傾げる。
 ワガハイも美禰子を見た。そしてワガハイは言った。その言葉が俺の気分をすっかり変えるものとは知らずに、俺は事態を見守っていた。
「早く帰らないと旦那が心配するぞ」
「ん……」
 物憂げに美禰子は体を起こす。

 旦那?

 瞬いた瞬間、辺りが無音になった気がした。

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