私の主君を見かけなかったでしょうか? と、目の前の美女は問うた。シュクン? と咄嗟に脳内で漢字変換が出来ずにただ首を傾げる。彼女は人の良い笑顔を崩すことなく、返答を待っているようだ。警戒心をとかしてもいるのだろうが、俺が固まったままずっと何も言わないでいると、一瞬真顔に戻り、彼女は苦笑した。
「失礼しました。――主君、と言っても、何が何だかわかりませんね」
「え、ええ……まあ」
 本当のところだった。彼女とは初対面で、当然、彼女の仕えている人など知るはずもない。そもそも「主君」なんて一体いつの時代の話だ、というところである。それは彼女の制服にも言えることだが。
「簡単に申しますと……一緒にいた者と逸れてしまいまして」
「ああ、そうだったんですか」
「こちらに詳しい方なら、何か助言いただけるのではないかと」
 多分、俺が首から下げている、総務委員パスカードが目に留まったのだろう。総務委員や生徒会執行部は学校外の人々の案内やサポートを随時務めなくてはならないので、あの人がそうだと判別出来るようワッペンにしたり腕章にしたり、様々なもので飾っているのだ。俺の場合はパスカード。これがあれば体育館やイベント舞台裏に入れたりする優れものだったが、過度の私用は出来ない。さっきの一年生もこれを見て質問したはずだ。
「何分、――「こちらの世界」にきたのは全くの初めてで、不案内にも程があり、ほとほとまいっていたところなのです。……挙句、私の連れは一点に定まろうとしない、やんちゃなお人ですので」
「はあ……?」
 何やら節々の単語が、俺の頭のハテナにひっかかる。
「清山に来たのは初めて、ですか」
 あんまり派手な文化祭なため、たまに全く清山を知らない旅行者のたぐいが入り込むこともある。しかしさほど問題はないため、特に規制はしていない。まさにあらゆる人間を巻き込む飛び入り参加どんとこいの宴だった。
「清山、と申すのですか。この建物は」
「建物……まあ、学校なんですけど。これが学校かって驚く人も中にはいて――」
「ガッ……コウ?」
 美女の発音が、ややおかしい。初めて聞いた単語をただ鸚鵡返しに繰り返した、という印象がした。
「その、ガッコウとは何でしょう?」
「え?」
「それに、何だか大変賑やかですね、ガッコウ全体で市でも開いているのですか?」
「いち……? 文化祭、なんですけど」
「ブンカサイ? サイ……マツリ、ですか? 道理で、騒がしいはずです」
 彼女は一種恍惚の面持ちで周りを眺めた。少し先の廊下ではサークルか同好会にも属してなさそうなフォークデュオが廊下路上ライブをやっていたり、クラス展示の宣伝がチンドン屋のように練り歩いたり、熱心な客引きがいたり、騒がしさはいよいよ増している。
「? あの、失礼ですがどこかの学校の人、ですよね、その制服……」
「……? ああ、この着物のこと。これはセイフクと言うのですか。……こちらに来た時から着ているのですが、中々着心地はよろしい。それにしても、南蛮の服の類でしょうか」
 困った。何だか話が、言葉がうまく噛み合わない。一生懸命周波数をチューニングしているがノイズが上手くとれなくてポイントが定まらない、そんな感じに近い。「こちら」とは清山のことなのはわかるが、じゃあその向こう側は何なのか。……学校も文化祭も制服も知らない。しかし漢字はわかっているみたいだ。
「そうそう、いつまでも名乗らず、大変失礼を」
 長く麗しい、少しの風にも舞う絹糸のような髪を優雅な仕草でかき上げ、居住いを正し彼女は言った。
「私はし……左近――左近志摩子と、申します」
 何か言い間違えたようだが、不思議な苗字だな、と彼女を見つめて呆けていた。慌てて俺も名乗り、一応頭を下げた。その言葉遣いや立ち居振る舞い、微妙に外れている常識で縁取られた美人に名前がついたことで、ようやく彼女の存在が地に足着けた、とは感じたが、しかしまだまだよくわからない。
 つっ立っていても埒が明かない、ただ惰性に時間が流れるだけなので、俺はその美女、志摩子さんを総合案内所や迷子センターに案内することにした。俺が少し見上げるほどの高身長を誇る彼女は身を縮めてすまなそうにしていたが、近くに総務委員や生徒会は俺以外見当たらない。これも何かの縁だと思った。決して、音宮さんから浮気したということではない。
 向かう途中、探している人物のことを聞いた。
「少年です。そうですね、大体私の腰辺りまでの身長でしょうか……。ああ、もし「元の姿」に戻っていれば、胸辺りまで、くらいの身長ですかね。……身長が低いのを気にしておられる方です」
「はあ」
 元の姿とは何だろうか。伸縮自在の少年なのだろうか。狼男のような怪物の類か。まさか、そんなおとぎ話に出てくる人間がいるわけない。俺は自分の考えに空しく笑う。多分、彼女にしかわからない独特の表現か何かだ。
「その、志摩子さんとはどういう関係……って、主君でしたっけ。その、上司?」
「こちらの、あなた方の言葉で言うならばそれに当たるのでしょう」
 俺の困惑が表に出ているのか、志摩子さんは苦笑していた。
「何分、こちらは「私達の世界では無い」為、不必要に名前は明かせませんが……おミツ様、とからかって呼ぶことがありますので、そう呼ぶことにしましょう。先ほど申した通り、私がお仕え申している方です」
 やっぱりその「仕える」という動詞が酷く現代に不釣り合いで戸惑うが、平常心を装う。その一方で、彼女の言葉の魔力に迷う。「私達の世界ではない」こちら、か。
 彼女は本気で言っているのだろうか?
「もともとは、私とは血の繋がりのない、義理の父が仕えていたのですが……不慮の事故で義父は命を落としまして」
「それは……あの、お気の毒な」
「いいえ、詮無いこと、そういう世なのです。……私達の世界は」
 最後の方は声のトーンを落としている。こちらの戸惑いが伝播したのか――彼女も「こちらの世界」だの「私達の世界」だの、意味不明な世界認識を大げさに開け広げることは自粛する流れになったようだ。
「血の繋がらない私を育てて戴いた、義父への多年の恩に報いる為と――それから」
 彼女はそこで、困ったように、しかし全く嫌そうにではなく、微笑んだ。
「おミツ様を放っておけませんので、義父の跡を継いだのです。汚らわしい女の身でありながら、差し出がましいことですけれど」
 志摩子さんを見上げる。その身長もさることながら、目を見張るような美貌と落ち着き、威厳というものであろうか、それと、少し過ごしただけで伝わる深慮と冷静さ。どれをとっても、全然男性に引けは取らないと思う。むしろ逆にこの人に仕えたい、と胸を熱くする人もいそうである。
(って、俺は何を考えているんだ。ああ音宮さん、これは浮気じゃなくて!)
と必死で空しい弁護をしているうちに迷子センターに辿り着く。

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