睫毛、目蓋の向こう側




「鏡太郎さん。鏡太郎さん」
 大正二十六年、夏。
 私が、時代の流行作家、硯妖社の美崎紅妖先生宅に押しかけてから早三か月が経っていた。三か月――上京したばかりの私の目には目まぐるしく様々な事象が移っては消えて、また生まれていく。その所為か、金澤で暮らしていたころに比べて随分と長く感じたけれど、私の文章の腕はさっぱり上がっていない。
『文藝倶楽部』や『大和讀売新聞』などに私の作品はまだまだ載せられるレヴェルじゃないから――紅妖先生に斡旋してもらった『幼年雑誌』で少年少女向けのお話を書いている。勿論、私に力がないからで、甘んじなければいけないのも解っているけれど、同じ紅妖先生のお弟子さんであるあの神経質な彼が、何かにつけて攻撃してくるものだから、どこか腑に落ちない。



 彼――この紅妖先生のお宅の玄関番の、一橋鏡太郎のこと。



「鏡太郎さん。鏡太郎さん」
 私の兄弟子ということになるんだけれど、いつもいつも、紅妖先生紅妖先生と、先生を追いかけ、先生の教えも愛情も独り占めしている。私だって目をかけて頂いてはいるんだろうけど、鏡太郎さんが事あるごとに私の作品や文章にけちをつけてくるから、やっぱり腑に落ちない。理不尽と言うか――こういうのを西洋では何ていうのだったかしら。
 鏡太郎さんは、意地悪で先生以外目もくれないけれど、その文章、作品世界は私よりも勿論――と認めるのも何だか頂けない――優れていた。でも先生が言うにはまだまだ荒削りなんだそうだ。この前こっそり教えて頂いたけど、初めての連載は打ち切りになるところだったらしい。それで、先生が何とか尽力して、どうにか丸く終了させたという、今の彼からはとても想像がつかない。
 まあ過去がどうであれ、どんなに頑張っても、私は妹弟子でしかないのだから――こうやって、お遣いに使わされることなんてしょっちゅうなのだ。私は彼に頼まれた新聞記事を探し出して、玄関まで行くところだった。



「鏡太郎さん。鏡太郎さんってば」
 いつも玄関にいて先生に取り次ぎをしているから、こんなに呼ばなくっても、すぐに返事をするはずなのに。煩い、一回呼べば十分だろうが、とか言って。
 結局玄関まで来た私を待っていたのは、彼の意外な姿だった。



 彼は――眠っているのだ。






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