私は鏡太郎さんの声なき声が飛ぶその場から逃げ、自室に戻りふふふと笑いを堪えていた。それは幸せな笑みだった。何故幸せに感じるのかが可笑しくて、また笑ってしまう。彼に惹かれていると気付いたことも、彼をからかえたことも、寝顔を見れたことも、全部全部、笑みに還してしまおう。そう思う。
ひとしきり笑って、笑みが体に気持ち良く浸透していくのを確認したら、私は畳の上に寝転んだ。畳の跡が頬につくが、気にならない。とても、満たされた気分だった。
しかし――ふと、空しくなった。
それはそれは、突然に。現実と幻想の隙間を破って空しさは――小さいけれど私の心に寄り添った。空しさなのに。
こういう時は、幸せを笑いにしたように、空しさを夢に送ってあげるのが一番なのだ。先生がそんなことを言っていた気がする。ひょっとすると鏡太郎さんだったかもしれない。
(睫毛……)
目を閉じようと思うと、自分の睫毛の影が視界に入りこんだから、どうしても私は鏡太郎さんの美しいそれを思い出さずにはいられなくなった。
空しさは毛色を変えて、愛しさや切なさになって、私の心を、今度は抱きしめてくる。
もう一度だけ、あれだけ近づいて――
私は心の何処かでそう願いながら、瞼を下していく。
あの睫毛をじっくり眺めていたいな――
願いは目蓋の向こう側の、夢幻の世界で実を結ぶかもしれない。
それでもいい。今更隠しても無駄だということを、私は知っている。
あの人が好きだから。
惹かれていると気付いたばかりだから、それでもいい。
ひとつ息をついてすぐ、私はひぐらしの鳴き声と共に夢の時空へ旅立っていった。
(了)