夏の幻はもう浮かばない。生ぬるい風が吹くだけだ。
 でも確かに静ちゃんだった。あの日のように、夢で見た時のように、同じ目をしていた。じっと僕を見ていた。責めるようで問いかけるようで、それでいてそのどちらでもない気がした。ただ僕だけを、何か言いたげに見つめていた。
 その一瞬の彼女の姿を思い出そうとすると、他のいろんなものが浮かんできた。一緒に遊んだ公園や河川敷、お互いの部屋、お互いの家、学校の教室、通学路、図書館、児童館、一緒に行った水族館や動物園や博物館、いろんな所。遊んだゲーム、読んだ本、見たテレビやアニメ。見上げた空の様子、交わした会話。
 いじめっ子に突撃していく彼女、助けられる僕。泣き腫らす僕の涙を乱暴に拭う仕草。引っ張っていく強い手。何か心ないことを言われて、相手にしない彼女。ふん、と不機嫌に鼻を鳴らしながら、何かを堪えていた様子。僕の手をぎゅっと握る。暖かいはずなのにどこか頼りない。握れば握る程、それは増していく。
 互いの汗を交らせるように、僕は静ちゃんの手を繋ぐ。
 それは静ちゃんがいたからこその世界だった。酷い世界かもしれないけれど、静ちゃんがいてくれたからこそ、生きることを疑問に思わない世界だった。
 でも言い換えてみればそれは、静ちゃんと出逢った場所は、この酷い世界だったと言うことでもある。

 僕らが生まれた場所。僕らが出逢った場所。
 物語の世界よりずっとうす汚れた、奇跡も希望も途絶えた世界。呪われた世界。
 それでも。

「僕らが出逢った場所」

 僕の力無い呟きに何かを返す人はいなかった。病院の屋上には外の僅かな騒音やノイズしか聞こえない。
 ぬるいべたべたした風が、涙と汗にまみれたべとべとの体を無音で撫でて行った。




 一歩一歩出入り口に向かうけれどまるで現実感がなかった。夢の中を歩いているかのようだった。一気に泣いてしまったから体がびっくりしてしまったのか、僕は何も考えられなくなっているようだった。ぼうっとして、とりあえず、ああ面会時間も終わったから帰らなきゃな、と、ひどくつまらないことだけ考えて足を進めた。
 出入り口には、静ちゃんのお母さんがいた。
「琴路君」
 良かった、と頭を抱き寄せてくれた。そうだ、多分必死の形相で振り切って行っちゃったんだから、それはもう酷く心配させてしまっただろう。静ちゃんのお母さんに抱きしめられていると、静ちゃんに抱きしめられているように思う。暖かいぬくもりは夏だと言うのにじんと体に沁み渡った。少しだけ現実感を取り戻す。
「おばさん、ごめんなさい」
 ご迷惑かけて、心配かけて、ごめんなさい。
 震える肩に、僕はそう呟いた。

  3
後編に続く
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