その揺れは、唐突に起こる。地中の生き物が首をもたげたかのよう。それこそ、僕が読んだ小説に書かれたみみずが地下深くにいるように。突き上げたそれは地上全体で怒りを表す。揺れる。揺れている。
 どうしよう。どうなる? やばい。震度三以上? でかいな。やばい。怖い。そんなぶつぶつ千切れる焦りと焦りの間、飛び込むように咄嗟に僕は静ちゃんをかばった。今度は物がかたかた音を立てるなんて可愛いくらいだ。大袈裟に揺れて床に落ちて転がったり、罅が入ったり、割れてしまったり。
 鎮まるまで、何秒かかっただろう。何十秒だったりするかもしれない。
 僕も無事だ。静ちゃんも無事。ただ僕の方は、肩で大きく息をしていた。気持ちの悪い汗が毛穴の一つ一つから噴き出て、じっとり服を湿らせていく。静ちゃんは何も知らず、やはり眠っていた。
 よかったと、安堵を覚えるよりも先か、いや、それが安堵を、たちまち食べてしまったのだろうか。
 恐怖が言葉の形を取って、問いかけてくる。
 もし、僕のいない間にものすごく大きな地震が起こったらどうする?
 大きな地震によって、静ちゃんを失うようなことがあったら?
 今の状況で、ありえないとは言い切れない。笑い話にするなんてことは、もう出来ない。
 その時、僕に何が出来る? 僕もその地震に巻き込まれているかもしれない。僕だって死ぬかもしれない。でも僕は自分の死よりも静ちゃんを救えない方に危機感を覚えた。噴き出た汗は、こんなことを思わなければきっと一瞬のものだったはずなのに、持続して僕を気持ち悪く濡らしていく。追い込んでいく。
 むしろ静ちゃんがいなくなることの方が大きい。それを考えただけで、汗とは違うものが生み出される。

 静ちゃんがこの世からいなくなってしまう?
 静ちゃんが奪われてしまう?

 僕はそれに、何も出来ない。厳然な真理に余計な干渉が出来ないように、その仮定は仮定であるにも関わらずあまりにも真実に近かった。
 そうだ。僕は何も出来ない。僕には何も無い。
 今も昔も、静ちゃんに助けられるだけの弱い存在だ。
 ただ助けられて、その恩恵を受け取るだけ受け取って、それなのに失っていくことを、ただ見ていることしか出来ない。
 あまりにも弱い存在。最初から今まで。
 生きていることも、厭わしいくらい。
 厭わしい。うん、嫌だ。

 いやだいやだ、嫌だ。

「琴路君!」
 面会時間はあと十分くらいで終わりを迎えようとしていた。おばさん、静ちゃんのお母さんは僅かな時間でもちゃんとやってくる。僕とはいつも短い時間だけ一緒になる。でも、こんな形で会うことになるとは多分想像しなかっただろう。僕もだ。驚きの声を上げることも予想外だったろう。
 僕はおばさんの横を、猛スピードで走り抜けていた。
 猛スピードで、空に一番近い場所を目指した。




 静ちゃんがいなくなる?
 静ちゃんがいなくなってしまったら、きっと僕は僕でなくなってしまう。まるで物語の登場人物であるかのように自分自身も含めた何もかもが一様に遠い存在になってしまう。むしろそう思わないときっと生きていけない。「静ちゃんを失う運命だった」そう思わないと、きっとやっていけない。でもそんなことも、僕は思いたくない。
 だから僕は生きていけない。静ちゃんのいない世界で生きていきたくない。
 屋上の扉を開け放って一気にそれだけのことを考えた。茜色から藍に染まりつつある空の美しさに見惚れることなんかまるでなかった。そしてその場にしゃがみ込んで、僕は僕の中心に向かって深く、慟哭の声を上げた。零れる涙は傷口から噴き出す血のようだったし、呼吸だって苦しかった。喉はひりひりと擦り傷を作ったかのように痛く、さながら炎を上げているようだった。
 屋上は無人だった。ただっ広い面積もコンクリートも柵も給水タンクも何も言わない。僕だけが生きているような世界だ。僕はそこで、僕と言う炎を燃やす。燃える水を流していく。
 思い返してみれば、僕はこんな風に大袈裟に泣いたのは随分久しぶりだった。さめざめと泣いたことなら、静ちゃんを本当に愛していると気付いた七月上旬の時のようにしょっちゅうあった。けれど吠えることしか知らない獣のように声をあげ、今時子供でさえもこんな酷い顔をしないだろうというくらいにみっともなく涙と鼻水を垂れ流すのも久しぶりだった。
 僕だって大人にならなければいけないとわかっていた。中学生なのだ。もう静ちゃんに泣きついたりしない。迷惑はかけられない。いくらなんでも簡単に泣いたりしない。仮にも男の子だし、泣くことは第一格好悪い。大体、泣いたって何も解決しないんだ。そのことをわかって、皆大人になっていく。だから大人は泣かないんだ。
 僕は一人でもちゃんとやっていける。泣くことなんてない。
 でも僕は、泣きたかった。静ちゃんが事故に遭ってから今弾けてしまうまでずっと、こんな風に大声を上げて、全てを出し尽くしたかったんだ。簡単に言ってしまえば、我慢していたんだろう。
 だって静ちゃんは眠ってしまっているから。
 僕が素直に人前で泣ける唯一の人は、何も応えてくれないから。
 色々限界でもあったんだと思う。学校もあるし、正直に言えば見舞い疲れだってあったし、ありていに言ってしまって僕は思い詰め過ぎていた。どこかで放出しなければならなかった。どんどんそれが溜まっていって、こうして決壊してしまった。
 僕は、やっぱり弱いのだ。静ちゃんは泣いたことなんてなかったのに。僕の知らないところで、泣いていたかも知れないけれど。そうだとしたら、泣かない人なんていない。皆ちゃんと泣いて大人になっていく。

 そして悟る。泣いたってどうにもならないことを。
 どうにもならないから、この涙の代償を世界に求める。

 静ちゃんが諦めたような笑いを浮かべたのと、きっと理由は同じだ。
 世界に対して、憎んでみせる。
 こんな世界、呪われている。
 静ちゃんを奪ったこんな世界。地震を起こしたこんな世界。救済なんてどこにもない世界。奇跡なんて起きない世界。
 そうだよ、静ちゃん。この世界にヒーローはいないし、神様もいない。素敵な運命なんかない。特別なことなんて何にも起こらない。劇的なことは物語の中だけだ。奇跡なんてもっと起こらない。僕は君を救うヒーローになれないし王子様にもなれない。弱くて泣き虫なだけ。どこまでいっても僕は僕でしかない。
 この世界では起こることしか起こらない。それは大体悪いことばかりだ。君は一向に目を覚まさないし、地震は今でも起きる。人は憎しみ合うし、つまらないことで殺し合うし、いじめなんかどこでも起きてるし、自殺は絶えないし、人間関係も何もかも、面倒なことばっかりだ。希望なんかどこにもない。そんなものは皆捨てていく。
「こんな世界」

 大嫌いだ。
 弱々しげながら僕は、断罪するように断定した。

 もう沢山なんだ。君のいない日々を送ることは。
 君のいない世界に、君の返事が聞けない世界に、僕がいる意味なんてないんだよ。
 君がいなけりゃ、意味がないんだよ。

「静ちゃん」
 地獄の底で噴き上げる業火のような涙と泣声がゆるゆると収束していく。絆創膏で傷を隠すように、彼女の名前を呟いていた。静ちゃんの名前を呼ぶ。
 だから? だから何だって言うんだろう?
 僕は柵の方にゆるゆると顔を向けた。
 高い手すりだ。車椅子の人は勿論、軽い症状で入院している人でも登ることは体力的に難しいだろう。でも健常者だったらどうだろう。その柵を越えることは、そう難しくないんじゃないか。でも病院で飛び降りなんて、外聞が悪いし、どうあっても防止出来るようにしてあったりして。実際のところどうなんだろう。
 なんて――僕は何を考えているんだろう。僕らの年代によくある死への憧れが屈折して浮かび出たのだろうか。はは、と形だけ笑って、涙を拭う。何度か瞬きをして、二呼吸くらい間を置いた。そしてもう一度柵を見た。
 瞬間、揺らめいたものがあった。
 さすがに二度三度、四度五度瞬いた。でもそれは一瞬で掻き消えてしまった。残像にも残らなかった。でも僕が見間違えるはずもない。そしてそれは多分僕が呼び起こした幻か何かだ。

 静ちゃんがいた。
 小学四年生の、あの雨の日の静ちゃんが。

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