静ちゃんはヒーローで、僕だけの女の子だった。
 そのことをわかっていたはずなのに、まだ子供に過ぎなかった僕は彼女を簡単に傷つけてしまった。誰だって、心細い孤独を感じたいわけがない。一瞬でも感じさせるべきでないそれを、そうだとわからずに与えてしまった。
 それでも大丈夫だと、思ってしまっていただろう? だって静ちゃんは強いんだから。いじめっ子をやっつけてくれるヒーローなんだから。
 違う。違う。静ちゃんは何でもかんでも耐えられるわけじゃない。強いわけじゃない。知ってただろう? 僕の手を無言で握り返すあの手の強さを。その強さに隠れた弱さを、心細さを、僕が、瀧川琴路が一番わかってただろう。
 でもわかってなかったんだ。
 あれは、してはいけないことだったのだ。
 神はどこまででもこの失敗を追及してくる。もし静ちゃんが一向に目を覚まさず、状態が悪化して脳死と判定されたら、僕の責任になるのだと。あの時失敗したからだ。あの時倒した一つのドミノは次々と他のドミノを倒して、今でも倒れ続けて、そしてゴールへと向かっている。最悪の結末へと。
 考えたくない。思わず顔を俯けた。そんな僕にぶっつりと刺さってくる二つの視線があった。顔を上げた。
 幼い静ちゃんが僕を見ている。
 どこか湿った雰囲気。固く閉じられた唇。刺す勢いであるがままを見つめてくる、恨めしさと切なさを潤いの中に隠した、無垢な瞳。静かに問いかけてくる。静かに責めてくる。丸められたその拳が僅かに震えた。
 瞬きもしないで、彼女は背を向けた。
「待って」
 向けたと思った矢先、彼女は闇に消えた。静ちゃん? 声がどことも知れない空間に木霊した。右も左も上も下も真っ暗だった。自分がどこから来たのかもわからない。静ちゃんがどこへ消えたかなんてもっとわからない。
「静ちゃん、どこ!」
 どこにいるの。闇の海を僕は泳ぐ。かと思えば走り、かと思えば飛んで探す。
「静ちゃん! 静ちゃん!」
 闇は声を飲みこんでいく。全然響かない。
「どこにいるの! どこ?」
 どこ! どこ? どこ! 上下左右もわからない。自分はどこを浮遊している? 走っている? どこなの! 叫んだ声は涙まじりだ。
 いつだってそう叫んでいた。静ちゃんに守って欲しくて。静ちゃんに慰めてもらいたくて、僕は泣き続けた。泣き声の方が勝って彼女の名前すらまともに呼べなくなって、それでも彼女を求めて声を上げた。吠えることしか知らない、犬のように。
「静ちゃん!」
 はっきりとした声でもう一度叫んだ。どこにいるの! と声を上げようとした。
途端、何の前触れもなく、その闇はぷっつり途切れた。





 途切れたことが、ある意味前触れだったのかもしれない。
 僕は静ちゃんのお見舞いに来て、そのままうとうとして座りながら寝てしまったのだ。ああ今のは夢だったのかと胸を落ち着かせるか否かの刹那だった。
 部屋が揺れた。かたかた、がたがたとサイドボードにある花瓶や時計が音を立て、一部の物は倒れてしまう。人に不気味な踊りでも踊らせるように床が揺れる。みし、と何かがきしむ音は幻聴だろうか。座っていてはいけないし、立っていても不安定だ。何か出来るわけじゃないけど、僕は立っていた。何も落ちてくるものはなさそうだったけど、器具を傷つけないようにがばり、と小さい体で静ちゃんを顔や頭を覆った。
 地震は数秒程で去っていった。実際には数十秒にも、数分のようにも思えた。どくどくと早鐘を打つ痛い胸に触れながらゆっくり静ちゃんから離れた。震度は三くらいだっただろうか。静ちゃんは、相変わらず目を覚まさない。揺れたことにも気付いていないだろう。程なくして看護師さんが揺れたけど大丈夫だった? と様子を見に来たが心配ないです、と微笑を返しておく。良かった、と彼女も微笑み返す。看護師さんのもそうだったのだから、僕のも、疲れの浮かんだ、緊張した微笑になったことだろう。
 じっとりと、汗が噴き出ていく気がした。震度三くらいならもう慣れたと言ってしまえる程だけど、静ちゃんのお見舞い中に出くわした中では結構大きかった。もし頭に何かがぶつかっていたら。そう考えるだけで、気持ちの悪い唾が体中を巡った気がした。最悪の結末を一足飛びに迎えることにもなりかねない。


 今年の三月に、大きな地震があった。それ以来、震度三、大きい時では震度五もある余震がしょっちゅう起こっている。静ちゃんが昏睡しても、変わらない。
 地震? 違う。地震なんて名称はまだ可愛い。大震災だ。東日本大震災と名付けられたその未曾有の大惨事は、静ちゃんの卒業式も間近な金曜日の午後三時前くらいに起きた。僕らの住むここ南邦市も東日本に属するから、相当揺れた。まだ授業中だったはずだ。その後も僕はまだ学校にいて、散らかってしまった教室の後片付けなんかをしていたはずだ。皆結構揺れたねとか怖かったねとか、その時はまだ他愛なく言い合っていた。僕にしたって多くの地震と同じように、それはあくまで突発的なものだろうと甘く思っていた。
 家に帰ってテレビをつけてみたら、とんでもない映像が延々と流されていた。
 初めて見る、津波と言う、言葉ではよく聞くけれど、本当は災害以外の何物でもないその残酷な正体を、僕はただ目を丸くして見ることしか出来なかった。僕も姉達も母も、言葉を失っていた。東京や都心に近い方は交通網が大打撃を受けて帰宅難民と言う言葉を生み出すくらいになった。もし僕らの家が東京の方にあったら、一日大人が帰ってこなかったかもしれない。それはどんなに不安なことだろう。
 でも、あの日は不安な家しかなかっただろう。日本には不安しかなかっただろう。さながら、覚めない悪夢の始まりだった。
 地震に関する報道は絶えなかった。テレビの娯楽番組はどれも特番に切り替えられ、新聞もネットも震災のことばかり。地獄絵図のような東北の様子は嫌でも目に付いた。他にも、原発がどうだとか、計画停電が実行されるだとか、流通がストップするだとか、いろいろ。
 先行きが見えず、ただ無為に不安ばかりが重なっていく。時間は経っても気はそぞろなままで、卒業式でも震災のことについての話だ。しょうがないことだけど、余計に落ち着かない。
 そしてそれは静ちゃんも同じだったらしい。時期は春休みに入っていた。これから始まる新生活への不安だってあった。なんだか何もする気がなくて、かといって眠る気分でもない。あてどもなく散歩でもしようと思って外に出たら、同じタイミングで静ちゃんも外に出たのだった。
 散歩だと思ったヨッシーがきゃんきゃん吠えていた。茜色の西日が静ちゃんの緩いボブを照らした。目が合ってしばらくはお互い無言で立っていた。パーカーのポケットに手を突っ込んだ静ちゃんがくすりと微笑むと、それが合図になった。
 二人一緒に近くの公園へ、ぶらぶら歩いた。
「なんか、どこも地震のこと、ばっかりだね」
「自粛したりするイベントも多いみたいだよ」
 多くの人が亡くなっている。行方不明になったり、慣れない避難所暮らしに苦しんだりしている。今は暢気にこんなことをしている場合じゃないと、音楽ライブを始めいろんなイベントが中止になったり延期になったりした。自粛ムード。それが特に、最初は強かったのだ。ただの想像にしか過ぎないけど、もしかすると六十五年ほど前の太平洋戦争の頃も、こんな感じだったのかもしれない。
 季節的に入学式を迎える頃だというのに。静ちゃんがそうだ。高校の入学式を控えている。――でもその入学式、始業式を行えないところもある。宮城や岩手、福島の方では。
諸手を上げて、静ちゃん達は喜べない。
 三月十一日以降の日本は、とても閉塞的な世界だった。
 無言で僕らは、ブランコに座った。ちょうど誰もいない時間帯だった。中学生になってブランコに座るのは初めてだったかもしれない。静ちゃんなんかもっと久しぶりだっただろう。
日本が大変なことになっていても、変わらず空は暮れる。夜がやってくる。そして明日は等しく訪れる。
「地震をやっつけてくれるヒーローとか、いたらいいのにね」
 静ちゃんが唐突に、そう呟いた。
「ヒーロー……」
「そう。何かさ、何でも解決してくれるの。ほら、オールスター何とか……じゃないけど、いっぱい、ヒーローが出てきて救ってくれるのもいいけど」
 そうじゃなくてさ、と古びたブランコの持ち手をぎゅっと、静ちゃんは握る。
「もうさ、一人だけ、超何でも出来るようなヒーローがいてさ」
 緩く、ブランコを漕ぎ出す。彼女の影が、話の内容とは打って変わって楽しげに揺れる。
「余震も津波も、あと何か、原発とかそういうのも、全部解決してくれて、家に帰れなくて困ってる人達とか避難所で生活しなきゃいけない人達のことも、皆助けてくれる」
 そんな人、いたらいいなあって。
 ずさあ、とブランコの動きを急に止めた音に、心細げな呟きは聞こえにくくなる。でも僕は、ちゃんと聞こえていた。静ちゃんはこちらに横顔だけ見せて苦笑している。大人びた笑いだ。
 そんな誤魔化しの笑いを浮かべられる程度には、静ちゃんは大人になっていた。
 じっと自分の弱さに耐える、唇を固く閉じる幼い頃の彼女は、もうそこにはいない。
「……なんかそういうの、小説で読んだことあるよ。東京に大地震を起こすみみずと戦う、かえるの話」
 何かのオムニバスで読んだ気がする。大分前のことだったからはっきりと覚えていないけれど、と言おうとしたら静ちゃんがあはは、と軽く笑う。乾いた笑いだ。
「やっぱり、そう言うのって物語の中だけだよね」
 ブランコの持ち手だけ掴んだまま、彼女はもうその遊具を動かさない。
 そんなのあるわけないんだよね。呟きが、黄金色の今の空に吸い込まれる。
「ヒーローとか、不思議なこととか、全部解決してくれるミラクルとか、都合のいいことなんて」
 静ちゃんは僕を見ない。僕とは違う方向を見て、断定をあくまで静かに下す。その名前にある通り。呟きと同じように、彼女も、暮れていく空の中に閉じ込められたかのように見えた。
「ヒーローなんていない。そうなる運命だって、きっとない」
 特別なことなんて、何もない。
 表情を一旦無くして、またふっと笑う。苦笑だった。あるいは何かを諦めたような笑み。
僕もまた、何も言えない。辺りには薄い黄金の西日が満ちていた。古い琥珀の中に固められてしまったように、僕は微動だに出来ない。言葉も失われていった。
 何かを言おうとすればどれも違うように思えた。変に逆撫でしてしまうのも良くないと思っていた。心ない言葉を飛ばされた静ちゃんに何も言えなかった、慰められなかったあの幼い日々と同じだ。
 僕のヒーローである静ちゃん。その時だって変わらずそうだった。
 その彼女が、それを否定した。ヒーロー全般を、はっきりいないと、弱々しげながらも言い切った。
 別に、彼女に弱音を吐いて欲しくなかったわけじゃない。静ちゃんは僕のヒーロー? そんなのは僕の勝手、イメージの押し付けだ。静ちゃんはどんな静ちゃんでいても構わない。弱くてもいい。臆病でもいい。僕は静ちゃんだったらどんな姿でも、どんな性格でもきっと愛せると思う。どうあっても好きになると思う。
 でも、その理屈を理解しているのと同じくらい確かに、突き上げてくる衝動があった。どうしても言いたくてたまらなかった。子供の我儘と同じだ。
 僕のヒーローは、やっぱり静ちゃんだ。
 今静ちゃんが話しているのは地震をやっつけてくれる、言わば全知全能の神様的なヒーローのことであって、個人の憧憬によるヒーロー像のことじゃない。ピントを違えたことを考えている。それはわかっている。
 西日の中大人びた苦笑を浮かべて、やんわり何かを否定してしまう、僕の愛しい人。
 その彼女は、ヒーローや奇跡や運命だけじゃなくて、まるで自分のことさえも否定したように見えたのだ。何も力がない自分を。ただの一般市民、ただの高校生にしか過ぎない自分を。崩れ去っていくものをただ見ていくしか出来ないだけの自分を。
 僕にとってはヒーローである、唯一無二の自分を。
 だからだ。だから僕は思わずにはいられなかったのだ。僕のヒーローは静ちゃんなんだと。静ちゃんは静ちゃんのままでいていいんだ、むしろいて欲しいんだと。ありのままでいていいんだ。何にも力がなくてもいい。弱虫でも泣き虫でもいい。ただ、そこにいてくれるだけでいい。生きていてくれるだけでいい。あの悲惨な震災の後だったんだから尚更だ。生きていることが何よりも奇跡だ。
 そう思った。強く思っていた。
 けれど、けれど。
「そろそろ帰ろっか。ごめんね、変な話してさ」
 無言に耐えられない。そう暗に言うように、静ちゃんはブランコから飛び降りた。
 無言。そう。僕は、年齢が一桁だったあの時からちっとも変わっていない。静ちゃんが未だにヒーローであるのと同じくらい僕は弱かった。
 僕は彼女に、何も言えなかったのだ。
 状況が状況で何だか雰囲気も重たかった。今はちゃんと言葉に出来るけど、あの時は衝動だけがあって言葉はまるでマグマみたくどろどろしていた。その混沌から言葉をうまく抽出出来なかったのだ。
 振り返った今だからこそわかる。二つ目の失敗。
 どんなに惨めでも、言葉がなってなくても言えば良かったのだ。それが静ちゃんを元気づけたかもしれないのに。誰かから何らかの言葉が欲しかったかもしれないのに。それが僕であることが、自惚れでなく何か特別な意味を持ったかもしれないのに。
 もしここで僕がちゃんと何かを言えていたら、静ちゃんは事故に遭わなかった? 昏睡に陥ることなんてなかった?
 もし静ちゃんの言うような何でも出来るヒーローがいるなら、時を遡ってこの失敗もなかったことに出来るだろうか?
 伝えたい。
 静ちゃん。君が僕のヒーローだと言うことを。
 だからそんな風に、諦めた笑いなんか、自分さえも否定するような笑みなんか、浮かべて欲しくないと言うことを。
 浮かべるなら――どうか、心からの笑いを。
 伝えたい。
 だから、目を覚まして。

1  
novel top

inserted by FC2 system