静ちゃんが小学四年生で、僕が小学二年生の時だ。あれも梅雨時か、梅雨が終わる手前くらいの七月の出来事だった。
 少し遠くにある図書館で、珍しい絵本の展示会が行われることになった。本を読むことと同様に絵本を読むのが好きな僕はある土曜日にこれに行こうと決めたのだけど、生憎母も父も仕事、二人の姉も用事があった。少し遠いとは言っても、小学二年生には遠すぎる距離だった。誰か付き添いがいなければ、迷うのは勿論、変な事件に巻き込まれたりもするだろう。その付き添いに渋々と言った態で、でもどこか得意げな顔で名乗り出たのが静ちゃんだったのだ。静ちゃんもご両親がお仕事で不在、お兄さんも土曜の補習に出掛けていて、その日に限って遊びの約束も入っていなかった。一人の時間を持て余すところだったのだ。八歳くらいの少年の付き添いに十歳の少女じゃ結局頼りなさが上乗せされたようなものだけど、静ちゃんはしっかりしているから、アクシデントは全く起こらなかった。
 その図書館へは電車よりバスで行った方がアクセスが便利で、バスを二本ほど乗り継いだ。梅雨時らしく、雨が降っていた。あんまり行かない図書館なものだから展示の絵本以外にも物珍しさにいろいろ見て回ったり、児童書のコーナーで手当たり次第ぱらぱら読んでいたりした。存外楽しくて、帰る予定の時間を一時間も過ぎてしまった。雨足は若干強まっていた上に、僕は何冊か絵本や児童書を借りてしまっていたから、濡れたり重かったりで、帰路はちょっとばかり苦労した。でもこれといって事件が起こったわけではない。本は両親がいる時に、車に乗せてもらって返しに行けばいい。
 そのまま家には帰らず、まず静ちゃんの家に行った。すると、今度は僕が静ちゃんの遊び相手となった。さあやっと私の番だとばかりに静ちゃんははしゃぎ始めたのだ。でも、雨の日の遊びなんて、大体は室内で出来ること、と言えばテレビゲームだろう。レーシングゲームをしたり、格闘ゲームをしたり。僕は自分からゲームはそんなにしないけれど、退屈なことはなかった。ゲーム自体は好きだし、静ちゃんと遊べるなら何でも楽しいし大好きだ。
 ただ静ちゃんは、退屈ではなくても、疲れてはいたのだ。不案内な土地へ行くのは、やっぱり十歳の子でも結構大変だろう。でも静ちゃんは弱ったところは見せたがらない意地っ張りな子だから、外にいた時はへばっているところを見せなかったし、僕だって全く気付かなかった。僕は僕で、僕が求めていたものに全力ではしゃいでいたのだ。馬鹿だ。静ちゃんが疲れていたことに気付けよ、昔の僕。馬鹿。
 せっかく借りて来たんだから読んでよ、と僕は絵本の朗読をせがまれた。あれも今にして思えば、静ちゃんなりの気遣いだったのかもしれない。静ちゃんは絵本や読書が特別好きと言うわけではないのに、僕は今も昔も単純な奴で、そう頼んでくれたことがただ嬉しくて拙い朗読を始めた。今でこそボランティアサークルで絵本朗読をそこそこ長い間やっているけど、全然なっていないあの頃の朗読は、静かに流れる雨音に背を預けるようにしてたどたどしく始まった。
 三冊目の途中くらい、ようやくペースがわかってきたところでその朗読は、ふっと途切れる。あることに気付いてから。
 静ちゃんが眠ってしまっているのだ。
 静ちゃん? とおずおず声をかける。びくともしない。背は愛用のクッションにゆったり預けられ、睫毛は美しく伏せられ、一定のリズムで胸が上下している。控えめに立つ寝息は僕のへっぽこ朗読よりもずっと耳に心地よい。僕が呼吸するとそれを乱してしまうかもしれない。子供心にそう思って、変に息が出来ないでいた。きょとんとした表情で眠る彼女を見つめていて、外では雨が淡々と降り続けている。
 小さい頃からずっと一緒にいる静ちゃん。当然お昼寝だって一緒にしたこともあるけど、僕の方がはっきりと覚醒していて、彼女だけがこんこんと眠っている。思い出してみれば、今の状況とそっくりだ。一見すれば、の話だけど。でも今も昔も、僕と言う人間は思う。何だか不思議だと。不思議な眠りだな、と。
 静ちゃん、寝ちゃった。その時の僕はそんな風にぽつりと心で呟いていたはずだ。起こすのは悪いと思った。とても気持ちよさそうに寝ていたし、一日付き合ってくれたんだし、疲れたんだろうとも思った。さすがに僕の朗読に催眠効果があるとは思えない。僕の家は静ちゃんちの真向かいにある。僕がいないからって心配することはない。むしろずっとお邪魔し続けるのも何だか悪いだろう。だから僕は軽く部屋を片付けて、自分の家に帰ってしまった。
 そう、帰ってしまった。
 それが、いけなかったのだ。本当に、こういう些細なことに限って殊更に神様は罰を下して来たり、大切なものを奪っていったり、大事な瞬間を仕掛けてきたりする。今の静ちゃんを眠らせているきっかけの事故にしたって、似たようなものじゃないか。
 夜の八時くらいだった。両親も姉二人も帰宅し、夕食が始まろうとしていた時、キッチンからいかにも美味しそうな匂いが漂ってくる頃だった。玄関のチャイムが鳴った。リビングでテレビを見ていた僕が出た。僕で良かった。僕が出て、良かった。
 扉の向こうには静ちゃんが立っていた。もうその頃には雨が止んでいて、傘も何も差していない。けれど何かに濡れたような、しっとりした雰囲気を纏っていたのを覚えている。
 ああ静ちゃん、と僕はその時笑ったはずだ。ごめんね、先に帰っちゃってて、そう続けようとした。
「どうして」
 僕の笑い混じりの声を遮る静ちゃん。
「どうして勝手に帰ったりしたの」
 その声は不思議なくらいに、普段の彼女と何にも変わらなかった。ちょっとお姉さんぶっていて、ちょっと偉そうで、ちょっと不機嫌な感じの声と全く同じ。敢えて違いを探すなら、やっぱり不機嫌さがほんの少し多いくらいで、ほとんど変わらない。
「寝ちゃったのは私が悪かったけど」
 変わらないからこそ、何かを隠している。
 それくらい自然だった。それくらい、不自然だった。
「心配、したじゃない」
 唇をやや尖らせたそれはいかにも子供らしい恨めしそうな表情だ。静ちゃんは当然、泣いてもいなかった。僕をじっと見つめているだけの瞳は不思議と憎しみはそれ程籠っていなかった。責めるようでもあり、問い掛けるようでもある。ただじっと、あるがままを見るだけの双眸。語らない。言葉はない。全てを均一にしようと、僕からも言葉を奪っていく。
 そんな彼女が彼女が震わせたのは睫毛でも肩でもない。固く握ったその拳だけ。震えたと言うよりむしろより一層固く握られただけだろう。
 いつもだったら、僕の手を握り返しているだろう。でも今は僕の手を握っていない。いじめられた僕を助けてくれて、でも自分も悪く言われて、どうしようもなくて、二人ただ立ちすくんで、打ちのめされて、そのままぼうっと歩いていくだけの時とは違う。
 僕からいなくなったのだ。
 静ちゃんは、意地っ張りだから。自分から手を伸ばそうとしない。
 誰もいないから。独りだから。
 独りにさせてしまったから。
「それだけ。じゃあね」
 一瞬だけ、僕をじっと見つめるだけの瞳に別の意味が浮かんだ気がした。それが何だかわかる前に彼女は身を翻していく。それも一瞬の出来事だ。少し駆け足すればそこは静ちゃんの家。扉を開く動作は速く、僕は静ちゃんとろくに呼びとめることさえも出来なかった。
 子供心にわかっていた。難しいことはよくわからなくとも静ちゃんのことならば。
 僕は取り返しのつかないことをしてしまったんだと。たとえ今から静ちゃんごめんと飛び込んで言ったところで彼女の方からそれを拒絶すると。もういいよ気にしてないと笑われてしまえばそれまでだし、そうなってしまうのだと。
 それでも言わずにいられなかった。月曜日、学校に行く前にごめんと謝ったけれど、やっぱり笑われただけだ。もういつまで気にしてんのよ、言ったでしょ、寝ちゃった私が悪いんだって。引きずらないでよね、そう背中だって叩かれた。私は大丈夫なんだと。
 それで大丈夫じゃないとわからないほど、僕は静ちゃんを愛してはいない。
 彼女を申し訳なさそうに見つめるばかりで何も言えないでいると、困ったような笑みで、ほら行くわよと手を引っ張られた。
 あの時ほど、手を強く熱く握りしめられたことは、後にも先にもない。


 僕は静ちゃんを独りにするべきじゃなかった。それを理解した上でのごめんの一言を、彼女はその意地っ張りな性分からちゃんと受け止めようとしない。彼女はどこまでも、僕より先に行ってしまう。年齢も身長も、感情も。そう考えてみれば僕らは、最初から独りなのかもしれない。それでも、たとえ互いに独りでも、僕らはずっと一緒にいた。その事件があっても、それまでと変わらず僕は静ちゃんに助けられたし、静ちゃんは僕を守った。そしてそのことがあったから、僕は静ちゃんを置き去りにしていくことにどうしても抵抗を感じてしまうのだ。尤も、彼女が眠りに落ちてしまうような失態は、あの日ただ一度だけだったのだけど。
 独りにするべきじゃなかったのに、数年経った今も、独りにしてしまった。独りにしたから事故が起きたとは、さすがに言い過ぎかもしれないけど、僕らは互いに多分、忘れていた。あの雨の日のことを。大人になるにつれて。
 でもあの日とは違って静ちゃんはすぐには目を覚まさない。

 すぐには。
 すぐには?
 本当に?

「静ちゃん」
 思惟の深い沼にはまる前に、僕は横たわる彼女に呼び掛けた。まるで何かの考えを断つように。不吉な何かを追い払うように。
「ごめん」
 独りにさせてごめん。
 絶対にもう、独りにはしない。
 今も昔も何度も投げかけているその言葉を、何度でも言う。
 彼女が受け止めるまで。
「ごめんね」
 だけど静ちゃんはやっぱり、目を覚まさないのだ。

  3
中編に続く
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