君が目覚めるその日を見る



 静ちゃんが事故に遭ったのは、雨が降り続いてどこもかしこも視界不良で、空気がべたべた、じとじととしている梅雨らしい、六月の末のことだった。
 後でおばさんから聞いたところによると、五月にあった中間テストの結果があまり良くなくて、意気込んで入部したテニス部でもあんまり上手く行っていないようだった。静ちゃんは人に弱いところを見せるのを嫌う人だ。それに、おばさんもおじさんもお仕事で忙しくて静ちゃんのことをよく見てあげられなかったから、詳しいことは察せられなかったみたいで、あまり突っ込んでも聞けなかったらしい。お兄さんだって離れて暮らしているから右に同じく。もしかすると、三月から飼い始めた犬のヨッシーには、少し弱音を漏らしていたかもしれない。
 僕にしたってそうだ。中学二年になったばかりでクラスも変わって、色々と気に揉むところもあって、静ちゃんとゆっくり話せずにいた。登校時間がなかなか合わなくなって、一人で登校するのもざらにあることだった。そんなわけで、気付けないのも当然だった。でもこういう肝心な時に限って、神様は大事なものを奪っていく。いつもいつも。
 事故は、最初は一台の車と車同士の衝突から始まり、それから数台の車が衝突し始めた一種の玉尽き事故のようなもので、静ちゃんの他にも車とぶつかった人がいるみたいだ。その日のNHKの地方ニュースでは大きく取り上げられ、次の日は朝刊の一面を飾った。僕の通っている中学校から現場の交差点は程近く、搬送先の病院も学校の近くの総合病院だった。被害者の家族や知人友人が来ているのか、僕が母から連絡を受けて病院に来た時は結構騒然としていた。
 おばさん、つまり静ちゃんのお母さんより僕の母の方が早く病室に来ていたのはおばさんの仕事が忙しかったからだけど、病室の入り口にある山林静恵と言う名前はそんな些細な齟齬よりもやけに現実離れしているように思えた。静ちゃんは病院とはこれっぽっちも縁のない人だったから。昔から風邪ひとつひかない子だったのだ。馬鹿は風邪をひかないとか、そういうことじゃない。人物もそうだけど、体力も健康も凛としていて、悪いものを寄せ付けない。静ちゃんはそういう人だった。もしかしたら、その時彼女が抱いていた憂鬱がこんな事故を引き寄せたのかもしれない。
 外傷は、けれども予想していた程酷くはなかった。頭と腕に包帯が巻かれて、頬に湿布らしきものが貼ってあって、人工呼吸器をつけていて、その他、少し管に繋がれているくらい。冷静に考えてみればこれだけでも随分だと思うけど、僕はとにかく酷いものを想像していたらしい。一体どんな惨状を覚悟していたのか。それは思い出せないけど、ゆっくり呼吸している様を見て胸を撫で下ろした心地なら今でも思い出せる。
 母の話によると見た目は酷い様子だけど骨折は免れて打撲で済んでいるようだし、見てわかるように眠っているだけのようだった。一言で言えば命に別条はないと言うことだ。少し遅れてきたおばさんにも同じように説明する。良かった、と、会社からそのまま駆けつけてきたのだろう、窮屈そうなスーツ姿のおばさんは気丈そうな外見とは裏腹にがくりと膝を曲げて一筋涙を流した。良かった、ともう一度呟いてハンカチの中に顔を埋めて声を殺し泣く。母はその肩を優しく抱いた。忙しくて子供となかなか過ごせないけど、おばさんはとても静ちゃん想いの人なのだ。親だから、と言う安直な理由ではない。おばさんはちゃんと静ちゃんを愛している。多分、おばさんがいなかったら僕がそうやって泣き崩れていただろう。僕だって、その頃よりもずっとずっと前から、言葉にすると途端に嘘っぽくなるのだけど、静ちゃんを愛しているのだから。でも僕は、身長は低いけど曲がりなりにも男の子なのだから、ぐっと堪えた。
 きっとすぐに目を覚ます。穏やかな呼吸を繰り返す静ちゃんに視線を流して僕も少しばかり穏やかに息をついた。目を覚ましたら、無様なところ見せちゃった、とはにかむか、どうせよそ見してたと思ってるんでしょう、と不機嫌になるかのどちらかだ。多分後者だろうなあ、なんて想像して僕は微笑すらしていた。
 けれども、静ちゃんは一向に目を覚まさなかった。

 事故から数日近くが経っても静ちゃんは目蓋をぴくりとも動かさなかった。動かすのはただ胸だけだ。それで生きていることの証拠になるのだから随分と皮肉だった。僕は病院が学校から近いこともあって、忙しいおばさんの代わりに静ちゃんを見舞っていた。時々は、母や歳の離れた僕の二人の姉もやってきて、互いに病室を行きつ離れつした。勿論静ちゃんが動くことはない。
 起きて動いている人と違って、これと言った世話はしない。例えば、僕が静ちゃんの汗を拭くだとか、下着を変えるだとか、そういうことは考えただけで赤面してしまう。確かに幼馴染として、それこそ生まれた時から僕らには長い付き合いがあるけれど、僕は至って健全な男子、もうすぐ十四歳と言うお年頃なのだ。さすがにそんなデリケートなことはおばさんや母達がやっているし、僕も見ていない。筋肉を衰えさせない為のマッサージは理学療法士さんがやっている。でも僕は静ちゃんを任せるに足る人物である。おばさんからの信頼を感じている。それは、ちょっと嬉しいことだ。
 だけど嬉しがってもいられない。静ちゃんは目を覚まさない。
 やがて七夕が近付いてきた。せっかくの七夕だと言うのに静ちゃんが事故に遭った日のようなぐずついた天候だった。でも七夕は、今の暦に合わせると大体梅雨時、それもど真ん中に当たるから仕方がない。だよね、と僕は眠り続ける静ちゃんに苦笑して見せた。静ちゃんは軽い寝息を立てるだけだ。
 静ちゃんは昔から雨の多いこの七夕に理不尽を感じていた。
「ねえねえ琴路知ってる?」
 あれはいつ頃だっただろうか。僕が小学一年生の頃だったはずだから、静ちゃんは三年生くらいの頃か。ぷりぷりしながらこんなことを言っていたのを覚えている。
 七夕は今の「こよみ」だと八月の真ん中くらいなんだって。雨の多いこんな日にやるのは本当はおかしいんだって。ひどいよね!
 そんな風に立腹し、鼻息を荒くしながらも雲の多い空を見上げる幼き日の静ちゃんと、へええ、と素直に感心する僕。そしてそれにも怒る静ちゃん。ごめん、と笑う僕。
 それ以来毎年七夕が近付くと静ちゃんは文句を垂れるようになり、むしろ七夕は静ちゃんの機嫌が悪くなる日と言うイベントになった。勿論僕の中限定でだ。それなのに笹に七夕飾りをつけるのは、結構楽しそうにするのである。短冊に願い事を書くのもそうで、僕よりうんと書いた。どれもこれも他愛のないものだった。テストでいい点が取りたいとか、あのおもちゃが欲しいとか。
 静ちゃんは、女の子にあるまじく、なんて言ったらきっと差別だとか言われてしまうのだけど、曇天や雨天で恋人同士の織姫と彦星が会えないことは然程気にしていないようだった。ただ七夕は晴れていて欲しいもの、星が綺麗に見えるもの、そしてその星が願い事を叶えてくれるもの、と思っていたらしい。記憶の中で七夕が綺麗に晴れたのは、実に片手で数える程だったけれど。
 とまあ、静ちゃんはそんな風に実に即物的な人だった。明らかに、七夕伝説にロマンスを感じていたのは僕の方だった。僕ら二人が織姫と彦星のようだったら素敵だな、とよく考えていたのだ。一年に一回しか会えないのは嫌だったけど、伝説になるような美しい二人だったらと。
 聞こえる雨音は、天の川の流れる音なのかもしれない。
 ロマンチックにそう喩えてみたけれど、気休めにもならなかった。覚醒している僕と眠り続ける静ちゃんの間には、天の川よりももっと強大な障害がある。僕がそれを何とかすることは出来ない。何とか出来るのは多分静ちゃんの方だ。だけど静ちゃんはそんなことも知らず眠り続けている。
 僕らはもう一度会えるのだろうか? もう一度言葉を交わせるのだろうか?
 一年に一度会えるとされている彦星と織姫の方が、よっぽど確実だった。僕は彦星ではなく瀧川琴路と言う一人の十三歳の少年だし、向こう側にいる彼女は織姫ではなく山林静恵と言う、眠り続ける少女である。

 静ちゃんは、いわゆる昏睡状態が、一週間以上続いていた。
 昏睡。ニュースやドラマや漫画や小説ではよく見るし聞く言葉だ。ものすごく簡単に言ってしまえば深く深く眠ってしまって全く目を覚まさない状態。ただ普通の眠りと違って、あらゆる刺激に体が何の反応も返さない。悪く言えば意識不明の重体だ。程度も色々あるらしい。半昏睡とか、深昏睡とか。静ちゃんは一番危ない深昏睡ではないものの、決して安穏としてはいられない状況にある程度には、深刻な状態の昏睡に陥っているのだ。
 昏睡から植物状態になり、それが二、三ヶ月続けば、意識の回復は見込めないと言う。
 おばさんとおじさん、つまり静ちゃんのお父さん、それと隣の市の役所で働いていて、今は離れて暮らしているお兄さんも戻ってきて、山林家は何度も家族会議を開いていた。勿論議題は、静ちゃんをこれからどうするか、山林家はどうするか、と言うことである。今の状態から植物状態になるならまだしも、脳死と診断されてしまうことも可能性としてある。尤もそれは最悪の場合の話だ。けれどもこのまま静ちゃんの昏睡状態が続くならば、絶対に家族による介護の必要性があるのだ。
 家が向かい同士だからと言って、中まで見えるわけがない。けれども僕は病室で何度も見ていた。辛そうなおばさんの顔。深く悔いる様子のおじさん。呼吸もしていないようなお兄さんの、重く閉じた口元。そして家の近くまで来れば、少し見えていた。静ちゃんを取り巻く中でただ一人、何が起きたかわかっていない、ヨッシーのつぶらな瞳。動物だから、しょうがないのかもしれないけど。第一、一人じゃなくて一匹だ。
 果たして山林家の三人と一匹は、静ちゃんを見捨てることはなかった。担当の先生と話し合ったところを見ていたわけじゃないけれど、おばさんもおじさんも愛していた娘だ。お兄さんにとっては歳の離れた妹だ。ヨッシーにとっては、よく面倒を見てくれた第一の飼い主だ。みんな、静ちゃんのことが好きだ。
 母が語るところによると、諦めない、とおばさんは泣きながらも強く強く言い切ったとらしい。
「まだ死んだって決まったわけじゃない。うんと若い。だって十六歳だもの。って」
 これからいいことや素敵なことが一杯あるはずなのに、その希望を全部、私達の勝手で捨てることなんて出来ない。私も旦那も少し仕事が落ち着いてきたところで、これから休みもちゃんと取って、うんと静恵とヨッシーと一緒に過ごすはずだったのに、こんなことでくじけたりしない。絶対に静恵は死なせない。いつかきっと目覚めると信じる。
 母の肩を借りて泣きながら、おばさんはそんな風に誓ったと言う。
「どれだけ辛いかなんて、簡単に言えないわよね」
 お金だってかかる。肉体的疲労も精神的苦痛も計り知れない。もし助かったとしたって、きっと一生、正常な暮らしは見込めない。そのことを思えば簡単に絶望の沼に落とされる。何も考えたくないと逃げ出してしまう人だっているだろう。でもおばさんもおじさんもお兄さんも、多分ヨッシーも、そうはならなかった。必死で耐えている。静ちゃんと同じように生き抜こうとしている。静ちゃんの家族はすごい。さすが静ちゃんの家族。静ちゃんを育てた人達だ。
 僕は? 僕はどうだろう。
 山林家に賛辞を送りながら総合病院を後にして、ふと我に帰ったように思う。静ちゃんは今後、ここでなく大学病院の方に転院する。僕はそれでも毎日見舞うつもりだけど、僕はただ幼馴染と言うだけで山林家の一員ではない。

 いや、ただの幼馴染じゃない。
 僕は、そうだ。
 静ちゃんを愛している。

「静ちゃん」
 病院を見返りながら、今更のように僕は呟いた。彼女の名前以外に何の言葉も出てこない。途端に、まるで言葉の代わりだとばかりにぼろぼろと涙を溢れさせていく。
 梅雨寒の中でその涙は燃えるように熱い。
「静ちゃん」
 その名の通り静かに呟く。静ちゃんは今も昏睡状態にある。誰の呼びかけにも反応しない。僕にも、おばさん達にも。そのまま深い世界に呑み込まれて帰ってこないかもしれない。

 静ちゃんがこの世からいなくなってしまう?
 僕が生まれた時からいた存在が、何の言葉も告げずに?

 静ちゃん。今度は声にすら出せなかった。胸の中に落とした彼女の名が、重く重く体に響いていく。
 彼女の名は、今までとは違う意味を持って僕の中を駆け巡る。それはばちばちと白く弾け、僕を狂おしいまでに刺激する。今すぐ病室まで走って戻りたかった。乱暴に彼女を抱きしめたいとさえ思った。そんな権利、僕にはないのに。
 僕は、甘く見ていた。失ってみて初めてわかる、なんてよくある話だけど、静ちゃんがこれ程までに僕を大きく支配しているなんて予想もしていなかった。僕は今、何を見ても静ちゃんを思い出す。どんな些細なものにでも彼女との思い出が刻まれているものだから、彼女のいない世界に僕はいないと言っても同然だった。彼女の声をもう一週間以上も聞いていないことに唐突に気付き、全身に切なさが走った。涙はいよいよ量を増していった。
 それは途方も無い好意だった。十三の男の子が持つには身に余り過ぎる純粋な恋情だった。この焦燥感にも似た気持ちを、単に一時の感傷に過ぎないとか、思春期の多感な頃だからそう思えてしまうんだ、とか言う人もいるかも知れないが、僕は確信していた。第六感が告げている。これは確実だ。これは絶対だ。運命よりも確かなものだ。
 僕は静ちゃんのことが好きだ。

1  
novel top

inserted by FC2 system