静ちゃんは僕にとって、テレビの中のどのヒーローよりもヒーローな女の子だった。
 二つしか離れていないけど、静ちゃんは小さい頃から発育のいい子で背が高かった。風邪ひとつひかない健康な子で、よく日焼けしていてスポーツ万能でもあった。スカートよりもパンツスタイルを好んで、髪もショートヘア。頭から爪先までボーイッシュそのものだった。とは言え、長じるにつれてそうでもなくなっている。髪型は相変わらず短いか、長くても肩までのボブくらいだけど、たまに制服以外のスカート姿の静ちゃんを見ることもある。僕はどっちの静ちゃんも好きだ。静ちゃんなら何でも好きだ。
 女の子の方が発育が早いから、男の子より身長が高い子はそう珍しくもないけど、僕は昔から発育が遅く、クラスの中でもダントツのちびでどちらかと言えば病弱な方でもあった。肌もやや白く、性格も大人しい、趣味も読書だとか絵本を読むことときてるものだから、比べたら僕達はかなり対照的な存在だった。同じ格好をすれば男女の区別さえ付きにくいかもしれなかった。
 家同士は向かい合わせで、しかも互いの家庭の仲はすこぶる良かったので、僕は静ちゃんの弟のような立場で育った。尤も静ちゃんの方は僕のことを弟と言うよりも子分だと思っていたかもしれない。パシリのようにも思っていたかもしれない。一人足りないけど、ドロンジョ様とその子分達に近かったりするかもしれない。
 弟であれ子分であれパシリであれ、僕自身としては、静ちゃんのことをお姉さんのように思ったこともあるけれど、僕にとって静ちゃんはどこまでいっても静ちゃんだった。唯一無二の存在だった。
 僕は、見た目からしていかにもいじめっ子の加虐心をそそるのか、保育園の時代から常にいじめられっ子だった。そしてそんな僕をいつも助けてくれるのがその唯一無二の静ちゃんなのだ。静ちゃんは二つ年下とは言え男の子のいじめっ子グループに互角で渡り合えるとても逞しい女の子だったのだ。たまには年上の男子と戦うことだってあった。でも静ちゃんは全然怯まなかった。そんなわけで静ちゃんには女の子らしからぬ生傷が絶えない子で、一言で言ってしまえば男勝り極まれりな女の子だった。
 僕は守られる自分自身をいつも不甲斐ないと感じていた。時には惨めだとも思った。だからこそ、僕の中で静ちゃんはより輝かしい存在になっていった。よくも惨めな目にあわせやがって、ああ憎らしいとか、羨まし過ぎてむかつくとか、そういうことは全然なかった。
 僕にとって静ちゃんは完璧で、つまりは、ヒーローだった。
 でも静ちゃんはそんな女の子なので、成敗された男子達から男女と揶揄されることはしょっちゅうだった。学年が違うから教室ではどうかわからなかったけれど、教室でも静ちゃんが悪目立ちしたりすると、途端にそんな風に揶揄されていたらしい。中学生の今から考えれば実に小学生らしい嫌がらせだと笑うことが出来るけど、小学生にとっては実に深刻な問題だろう。
 けれども静ちゃんは、その場で感極まって泣き出したり、おばさんやおじさん達に泣きついたりすることもなかった。ぐっと耐えて、稚拙な文句を繰り返すいじめっ子に颯爽と背を向けて僕の手を引っ張って帰っていったものだ。
 静ちゃんは泣かなかった。でも、僕はその横顔をじっと見つめていた。困惑しながら目に焼き付けていた。
 だって静ちゃんは、泣いた方がいくらか救われるような、辛い、苦しそうな表情を落としていたのだから。
 それでも泣かなかった。ヒーローは決して、人に弱さを見せないのだ。涙を流したりはしないのだ。
 僕の手を握り締める静ちゃんの手の強さ。何年経っても覚えている。僕の手の甲や掌にはきっと彼女の指紋が、今でもついている。そう思うくらいに。
 僕は、隣にいながらも何も気の利いたことが言えなくて、その手を握り返すことしか出来なかった。とにかく弱い存在だった。でも何かを言ってしまえば静ちゃんが怒り出しそうな気がした。彼女はそれを望んでいないだろう。だから黙るしかない。無音の茜空の下で、僕も静ちゃんも、無力さをきっと感じていただろう。
 稚拙で下品なことを言われて気落ちしない女の子が、そう簡単にいるわけない。
 静ちゃんは女の子だ。母よりも姉よりも身近にいる女の子だ。七五三の時の着物姿が綺麗だったとか、笑顔が可愛いとか、いかにもわかりやすい記号を思い出して言っているんじゃない。まだ二次性徴も始まっていない、性の区別なんて曖昧な頃だったけど、僕にとって唯一無二の存在であると言うことは、僕にとってたった一人の女の子でもあったのだ。

 どこかに行く時に自然と繋ぐ手の暖かさ。
 守られた時に握られた手の安心さ。
 そして、二人で屈辱を抱える時に握り返し合う、手の強さ。その弱さ。

 守られてばっかりの僕だったけど、僕もいつか守りたかった。強くてがさつで大雑把、乱暴で男勝りな静ちゃんだけど、本当は誰よりも優しくて繊細で、そして弱い彼女が、僕は大好きだった。深く深く、愛していた。

 僕の中で静ちゃんはヒーローだ。だけどそれと同時に、誰よりも大切な女の子だ。
 僕の愛する人だ。

 琴路君、と背後から優しい声がかかる。おばさんだ。スーツ姿なので職場からこちらに来たのだろう。学生の放課後に間に合う時間。社会人の終業には少し早い時間。早退してきたのかもしれない。僕の方はと言うと少しうとうとしていたようだ。すいません、と目を擦りながら苦笑し振り向いた。おばさんも同じように苦笑して見せた。
「ごめんね、もうすぐ期末テストなのに」
 多分僕が力無くだらりと持っている英語の単語帳に目が行ったのだろう。あはは、と軽く笑いながら何の意味も無く首を振った。
 七月もそろそろ半ばに入る。でも夏休みや冬休みの前には常に壁がある。そう、テスト。常に学生の敵であるそれである。静ちゃんがこんなことになっていると言うのに僕の学校生活の方は実に平和に進級と言うあがりへコマを進めているのだった。何だか変な気分だった。正確に言うと腹立たしい。静ちゃんが目を覚まさないのに、勉強も何もあるもんか。
 と抗議したところでテストがなくなるわけもない。静ちゃんと同じ高校へ入りたいから、一定の成績はキープして出来れば学力も保持しておきたい。とは思うものの、こんな状況で内容が頭に入ってくるわけもない。でもやらなくちゃ。でも静ちゃんが。でもでも。全く、堂々巡りのこの自問自答は一体何度目だ。
 つい重い溜息をついてしまって、慌てて僕はすいませんとおばさんの方を見た。
「いいのよ。琴路君は私より、静恵の傍にいることが多いんだから」
 日数で言えば山林家と瀧川家ではトップよねえ、と笑みを浮かべるおばさん。誇っていいことなんだろうか。どう反応するべきだろう。おばさんとも長い付き合いだ。その所為でむしろ僕はどうしていいかわからなくなって、いえ、なんて曖昧に笑って返事しながら、縋るように静ちゃんを見つめた。今日も静ちゃんは何も言ってくれない。何も言えない。
 沈黙が重い。思えばこんな早い時間におばさんと二人きりになることはなかった気がする。娘がこんな状態になってしまっているので、お仕事の方も随分融通が利くようになったらしいけど、それでも面会時間が終わるぎりぎりにしかやって来れず、二人きりの時間はいつも短い。僕だけじゃなくて母がいたり姉がいたりすることもある。今更おばさんに緊張を感じる必要はないのだけど、場が場だし、状況が状況だ。
 静ちゃんをずっと支えると決めたおばさん。希望を捨てない人。諦めない人。
 事故から数日経った頃、真剣に静ちゃんを見つめる横顔を思い出す。意志の強い瞳。真実を見極めようとするようなきりりとした眉。本当は怖くても、決して逃げだそうとしない強さが秘められた、とても静かな表情。今にも破裂しそうな激情を秘めながら、乱すことはない。
 ああ、静ちゃんのお母さんはこの人以外にあり得ない。当たり前のことなのだけど実感としてそうひしひし感じる。お仕事で引っ張りだこなのも、むべなるかなと言ったところだ。
「生きてるのよね」
 おばさんは突然、ぽつりと呟いた。
「あんまり言っちゃあいけないってわかってるけど、眠ってるようにも……死んでいるように見えるのに」
 彼女が言うように、言葉には言霊が宿っている。静ちゃんのいるところで不用意に死を感じさせる言葉を聞きたくはなかったけど、おばさんはそこで終わらない。
「不思議ね。死んでいないのよね」
 細めた目尻に浮かぶ皺。涙の代わりに慈しみが滲んでいる。
「ちゃんと生きてる」
 生きているんだわ。そうどこか弱々しげに言う。そこには確かに疲れが滲んでいたけれど、同時に救いを感じる響きの言葉でもあった。出口のない自問自答に混乱する僕にも、どこか落ち着きが与えられた気がする。同じ所をぐるぐる回るんじゃなく、ちゃんと方角を定めて、前を向いて歩いて行ける。
「ありがとうございます」
「どうしたの急に」
 お礼を言うのはこっちの方じゃない、と浮かべる笑顔から、少し疲れは取れている。
「いつもありがとうね、琴路君。静恵の傍にいてくれて」
 それからしばし、静寂がゆったりと流れる。単語帳の中身なんかずっと前から入ってこないも同然で、僕は勉強する振りをしながら静ちゃんと、静ちゃんによく似たおばさんをそれとなく交互に見ていた。視線は極めて静かに飛ばす。でも、目は口ほどにものを言う。たとえ無音でも。不意におばさんと目が合ってどきりとした。恥ずかしい上に気まずい。
「お勉強、あるんでしょう」
 変に固まった僕を解すかのような微笑みに辛うじて苦笑した。
「今日はもう帰ったら?」
「ううん、おばさん」
 僕が静ちゃんのところにいたいだけなんで、と戯れに単語帳のページを指で弾くように捲った。出来れば面会時間ぎりぎりまで、と口走ったけれど、おばさんも静ちゃんと二人きりで過ごしたいと当然思っているはずだ。
「って、いつも迷惑かけてすいません」
 考えてみれば静ちゃんの時間は僕のものってわけじゃないのに、何を言っているんだか。
 でも僕には、静ちゃんをまるで置き去りにでもするようにさっさと帰ってしまうことが、出来ない理由があった。僕の時間だ。自由にすればいいのに、それでも静ちゃんを一人にするのに抵抗がある。それらの理由は、実に些細な出来事から生じているものだった。
 ううん。他人には些細でも、僕には重要なんだ。
 何を言うべきか、咳払いすら出来ないでいるとおばさんは、そうねえ、と笑った。わかっている人の顔だ。
「今ここで静恵が起きたら、また昔みたいに「何で帰ったの」って、ぶうたれちゃうものね」
 それを想像してか、彼女は尚笑みを深めた。その奇跡の度合い、それからかつての出来事の懐かしさに、ふとした弾みをつけてしまえば一気に涙の堰を切ってしまうような、潤みを含んだ笑みだった。そう、そうなんです。僕もそれだけ言って薄く笑ってまた静ちゃんを見た。静ちゃんは当然、目を覚ましたりすることはなかった。
 記憶にある限りでは一度だけ、しかもかなり昔のことであるその出来事は、僕だけでなくおばさんにも印象深く記憶に刻まれているようだ。ある意味でとても静ちゃんらしい出来事だからだろう。でも、おばさんには悪いけど、僕の方がもっともっと深く刻まれている。一生消えない指の根元の傷のように、一生僕を捕えて離さない記憶だ。
 人はそれを、もしかすると呪いと呼ぶかもしれない。でも呪いだなんてとんでもない。僕にとって静ちゃんとの思い出は、愛の記憶そのものだ。それがどんなに悲しくて寂しくて、重いものであっても。

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