「ちょっと。聞いてる? 寝てるの?」
 何かが弾けたように目を開いた。回想に耽っている間に、閉じてしまっていたらしい。由香は昼間と変わらない格好で憮然としながらぼくの方を見ていた。辺りはもうすっかり夜の時間に落ちていて、ライトアップで灯されるぼんぼりの明りと出店の光で何とか由香の顔がわかった。
 由香を見て、ぼくは、開かれたばかりの目を更に大きく開いた。
 頭の中が随分鮮明になっていく。輪郭を失っていたありとあらゆるものが形を取り戻していき、ぼくの中で確かな意味を持つようになる。世界を理解する言葉が次々に溢れていく。更に、何かしらの思い出がぼくをどんどん満たす。
 由香、と返事の代わりに呼びかけることも出来ない程に、満ち満ちていく。

 今のぼくにはもう――わからないことなど無いに等しかった。
 やっぱり、今夜だったのだ。日付に意味があるわけでも、場所に意味があるわけでもない。ただたまたま、その時が訪れてしまったのが今夜だっただけだ。ぼくの予感は当たった。――由香から目を逸らし、ぼくは息を飲んだ。

「なに黙ってるの。ねえ、早くいかないと入れなくなるよ」
 ぼくの手を掴めない由香はそのまま入口に向かっていった。時刻はわからないけど、もうライトアップが終わる時間なのだろう。辺りを見れば時間ぎりぎりだと言わんばかりに駆けこんでいく人がちらほらいた。その一方で夜桜観賞を終えた人々が屋台の近くや横断歩道の傍で感想を述べ合っていたり、まだ見える桜を見ていたり、明日から始まる日々の生活に文句を言っていたりする。
 そんな様子だから、誰も由香を不審に思う人はいなかった。中学生の女の子が、同伴者もなしにたった一人で夜桜を見に行く。それだけで十分補導員に注意されるはずなのに、それらしき人影も見えない。もともといないのかもしれない。
しかしだ。庭園の入り口を跨いだ時、ぼくは違和感に気付いた。
 夜桜を見る人、写真を撮る人、池に映り込んだ桜に見惚れる人、それらは確かに存在する人なのだと思う。けれど、ぼくは足を止めてしまう。由香の行き先を見やる。進めば進む程、闇がどんどん深まっていく。人工の光は届かない。
 そしてそこは、この庭園じゃないような気がしたのだ。その先に待つものやそこが一体どんな場所なのか――わかっているのだけれど、うまく説明出来ない。歯がゆさで口を閉じた。ただ、ぼくがついていかないと意味がない。だから由香の後を追った。
 由香の足取りは暗さに反比例して妙に軽快だった。どこか知らない土地を探検するやんちゃ盛りの子供の足取りに似ている。耳を澄ましたら口笛さえ聞こえてきそうだった。今まで見てきた中で、一番楽しそうな由香でもある。
 でも――ぼくは疑問を抱いた。由香はこの先に待つものを知っているのだろうか? いや、知らないだろう。この足取り、彼女の纏う楽しさからして、彼女はまだ気付いていないのだ。
 あるいは、かなりぎりぎりのところで気付いているけど、気付かないようにしている。まだ嘘の理由でただ軽い足取りを装っているに過ぎない。ぼくを騙す為じゃない。自分を騙す為に。そしてそんな意図があることすら、彼女は知らないのだ。
 どんどんどんどん、人気のないところに行く。この庭園にも終わりはあるのだろうけれど、その果てというものが全く見えなくて、普通の人ならば恐怖を感じているだろうという頃だ。
「由香」
 彼女は振り返らない。
「どこまで行くの」
「とりあえず奥。隠れなきゃいけないし?」
 忍び込むとか、隠れるといった趣向も、彼女が本当にやりたいことではないと、ぼくの方はとっくに気付いている。
 少し歩を緩めた由香はこんなことを話し始めた。ぼくが声をかけた反動で自分も沈黙を破りたかったのかもしれないし、これといって他意は無かったのかもしれない。
「ねえ、この庭園で昔、人が殺された、って言ったらどうする?」
「殺人事件?」
 そんな話をするなんて、予想していなかった。
「センターの授業で読まされた小説の話だから本当のことじゃないと思うけど。なんかね、お金をすられた女の人が、ここに住んでいた人を殺して、すられた分、殺した人からお金を奪い取っちゃうの。まあでも、殺すつもりじゃなかったんだけど」
「物騒だね」
 本当の話じゃないって、と由香は腕をうんと伸ばした。
「でももしここで誰かを殺したら、やっぱり埋めるのは桜の木の下になるのかな」
「死体は放置するものじゃないの?」
 彼女の視線は足元へ向かう。風に乗って運ばれてきた桜の花びらの足跡が出来ているのが辛うじてわかる。
「いやね、なんか、桜の木の下には死体が埋まってるものらしいんだって」
 これもセンターで読まされた話、と由香は花びらを踏んづけながらまた歩を進めていった。
楽しげなのと同じく、ぼくと一緒にいた中で、間違いなく今の由香が一番饒舌だった。ほんの少し戸惑ってしまうくらいに。――彼女も次第に、何かを予感しているのかもしれなかった。
だったらぼくも多くを話すべきだろう。
「でも君は」
 こんな風に話をしているのに、尚も由香は背を向けていた。ぼくが彼女の背中に語りかけたり、視線を送ったりするのは、最後まで一貫しているのかと思った。

「穴を掘るのが、何かを埋めるのがどれだけ大変な仕事か、もう知っているだろう」

 何よりもぼくがその大変さを知っていた。思春期の女の子の非力さでは、道具を用いてもなかなか穴は掘りづらい。掘ったとしてもひどく疲れる。
「たとえ猫一匹埋めるだけでも」
 そう。小さな猫や犬でも、ちゃんと埋めるには相当の深さが必要だ。

 ――ぼくが知っていることは、由香も知っていることだ。
 日記帳、アルバムの場所。押し入れにあるもの。机から消えたもの。お母さんに対して感じること。その全てが、ぼくと由香、二人にだけ共通してある認識。

 由香からの返事はなかった。数秒間、進むのを止めただけ。僕らの距離は沈黙で広がっていった。
「ねえ」
 それはまるで縋りつくような問いかけだった。
「何で私ここに来たんだろう?」
 項垂れた彼女はしかし、こちらを向くことは無い。何を言うべきか迷ってしまう。今ここで全てを説明するのがいいのだろうか。でもそうすべきではない。まだもう少し奥へ進まなければいけないと、ぼくは感じている。
「何でいきなり、そんなこと言うのさ。さっき言ったじゃないか。隠れるって。忍び込んでみようって言ったよ」
 結局そう言うしか無かった。何も知らされていないように。
 それからすぐ彼女は逃げるようにぼくから距離を取った。灰色のパーカーの後ろ姿が、小さくなる。ぼくは眉尻を僅かに下げた。そして、何も言わずに小走りで追う。
「ついてこないで」
 由香は小さく叫んだ。声を荒げたわけじゃないけれど、明らかにぼくを拒む。
「こっちこないでよ」
 もはや周りの風景は完全に庭園のそれとは異なっていた。夜の闇が何もかもを隠しているとか、光が届かなくなったとか、ライトアップが終わったとか、そういうことではない。場所を表すものが何も見えない。ただの、名も無き闇の中。そしてこの中ではきっと互いの姿だけが見えるようになっている。
 もうここは庭園ではないのだ。現実世界でもない。どこか別の場所に繋がる、見えざる道なのだ。
「さっきの話は偶然かもしれないけど」
 声を荒げなくてもぼくの声は由香に届く。そういう風に出来ている。
「君は誰かを」
「そんなの知らない!」
 由香の声もまたぼくに届く。そういう風に出来ている。
「ぼくはまだ何も言っていないよ」
「言うな! 何にも言うな! 黙れ! 死ね!」
 一瞬だけど、声を失う。由香にそう言われることはやっぱりショックなのだ。
でも、ぼくは見えていないだろうけど首を振り、肩を竦めた。
「残念だけどぼくは既に一度死んでしまっているから」
 いつの間にか全力疾走になっていた由香はようやく立ち止まる。振り乱した髪も整えず、灰色の肩は息をする度上下する。ぼくはゆっくり歩いて彼女に近付いた。
 由香は、せっかく走ってここまで来たのに、どうしてか後ずさりする。
 前方に見えるものを、ぼくは改めてじっくり眺めてみた。

 桜の木だ。
 庭園に何十本と植えてある、由緒正しい立派なものではない。河原や校庭や公園、どこにでもあるような場所に植えられている何の変哲もない、普通のソメイヨシノ。

 団地に植えられている桜だと、ぼくにはわかっていた。
 ぼくのスタート地点。

 ただの闇は次第に夜の闇に姿を戻していく。桜はほのかに発光していた。桜色と呼ぶよりも白色の光。これで雨が降っていたらまるきり由香と出逢った時と同じになる。

 でも「あの時」雨は降っていなかった。夏だったから桜も咲いてはいなかった。

「やだ」
 由香の声は震えていた。
「何で私こんな所にいるの」
 泣きそうなまでに怯えた声に、ぼくはどこか悲しさを隠さずにいられなかった。
 ――由香はやっぱり、ぼくを求めてはいないんじゃないだろうかと。由香はまだその由香のままでいたいのではないのかと。
 でも本当にそうだったのならこんな所には来なかっただろうし、そもそも、ぼく自身が彼女の前に現れることもなかったはずだ。

 由香自身が、ぼくを呼んだのだ。

「何で忍び込もうとか、そんな……馬鹿なこと考えるわけ? わけわかんない……自分でやったんだけど、ほんと、何で……? 何で、こんな所に……」
 狼狽は手の震えにも表れていく。やだ、怖い、と顔の形、自分の存在を確かめるようにぺたぺたと震える手を這わす。やがて震えは足に到達し、彼女はばたりとその場に尻餅を突く。
 その姿を見て、ためらいがちに、ぼくは告げる。
「そこの土を掘ってみたらわかるんじゃないかな」
 掘る? と憔悴した様子で呟き、土に目を向け、それから僅かばかりぼくの方を見やる由香。でも顔が完全に見えるわけでもなく、目も合わせることも無い。
「掘ってみたところで何も無いと思うけどね」
「じゃあ、そんなこと言わないでよ」
「どろどろに溶けて骨も無いかもしれないし、あるいは砕けてしまっているだろう。
 そんなところに、ぼくはいない。ぼくは今ここにいるんだからね」
 今度ばかりは、完全にこちらを向いた。子供のように目を丸くしている。
「あんた何言ってるの? 何を知ってるの? あんた一体……」
「それは君が一番知っていると思う」
 僅かに由香の喉が動いたのが見えた。
「あの時の猫? 死んだあの、猫? だから「ぼく」とか言ってるの?」
 あの猫オスだったもん、とこの状況で由香は苦笑を無理やり作りだす。そうなんでしょ? 何で人間の幽霊になってるの? と様々に問いかけてくるその顔は総じて固かったし、大いに戸惑っていた。
「それは二割くらい正解」
 由香の表情が完全に固まる。
「ぼくとあの仔猫は一緒に埋められたから、性別を借りただけだよ。いきなりそのまま出ていっても、君が驚くだろうと思ったから」
「それなら……あんたは何なの?」
「さっきも言ったけどそれは君が一番よく知っていると思う」
 同じ言葉が唇を跨いでいく。その意味を由香が本当に解するまで僅かばかりの沈黙が必要だった。
 やがて合点したのか、驚き続けて見開かれたままの瞳を眠るように細めていった。
「嘘でしょ」
 呟いて再び背を向け、彼女はおもむろに何かをし始めた。

 土を、掘り始めた。

「そんなことあるわけないじゃない」
 土を、どんどん掘る。素手では掘ることが難しいはずなのに、現実ともそうでないともつかないこの空間ではそんなことは関係ないようだった。彼女は真実へとただ突き進む。掘り進める音、呼吸音、息切れ、うわ言のように繰り返される否定の言葉。
「痛っ」
 そう声を上げて、由香は没頭していた意識を取り戻す。手に何かがかすったのだろう。金属か石か、何かの破片か。ぼくはもう少し由香に近付いて、追い越し、由香が堀った穴の向かい側に立ち、彼女を見下ろす。
「……これ」
 何で、と彼女は穴の中にあったそれを拾い始めた。
「何でこれがここに……」
 左手に破片を広げ、右手はパーカーのポケットへと伸びる。
 そして右手に出されたものに、桜の光が当たる。鼈甲色は鈍くだが、照らされて明るく見えた。
 右手には三本足のガラスの小鹿。左手には粉々になったガラス。けれど破片の中に小鹿の首らしきものが見えるから、辛うじてそれはガラス細工の小鹿だったとわかる。
 そしてそれは、全く同じものなのだ。色も形も模様も、三本足であることさえも。いつからか足が欠けた状態で由香の机の上に飾ってあったことを、ぼくは知っている。
「君が壊した」
 声は項垂れて二つを見つめる、由香の上に降る。

「君がぼくを壊した」

 もう思い出しているだろう? 声には出さず、ぼくは心で由香に問う。

「君は、かつての君を自分で壊した。
 君はいじめられっ子で弱虫で、人とうまく仲良く出来なくて、何のとりえもない自分自身が、大嫌いだったから。中学入学から失敗して、頑張ったつもりがいろんなことに悩まされて、あげくの果てに、助けたはずの弱っていた仔猫を、結局、助けられなかった。死なせてしまった」

 言っているぼく自身、とても辛い。どれもこれも本当は認めたくないことだ。

 だってそれは、目の前の由香のことだからだ。
 だってそれは――ぼく自身のことだからだ。

「そのショックが一番大きな原因だったんだろう。君は君を壊した。大嫌いな自分をガラス細工に捨てた。あれはとても暑い、お盆前の、夏休み中の夜の出来事だったね。腐敗し始めた猫と一緒に埋めて、それから――君はまったくの別人になった」
 まるでそのまま、読んで字の如く、別の人間になってしまったように。何も知らなかった頃そう感じたがその通りだった。しかも置き去りにされたのは、当の本人であるぼくだったのだ。
「でもぼくは、呼ばれたんだ。他でもない君に。
 それはつまり、ぼく自身に」

 由香は今、どんな顔をしているだろう。
 由香は今――どう想っているのだろう。
 自分のことなのに、ぼくには――そう、やっぱり、わからない。

「ぼくは、君だよ。小島由香」

 微かな声で由香に――ぼく自身に、ようやく本当のことを告げた。



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