そう思って目を閉じかけた時、突然体が揺れた。そして強い力で無理やりぼくは土の上に立たされる。戸惑いと僅かな涙で滲んで、まだ揺らぐ視界。ぼくの向こう側に立っていたのは、ぼくだった。

 由香だ。

「なんで」

 由香の声は憤りの塊だった。

「なんでそこでやめちゃうのよ! 馬鹿! ほんと、やっぱりそのまま死んじゃえばって思うくらい馬鹿!」

 罵倒や冷笑は今まで何度か受けた。だけど、睨んでくる由香と突然の怒りと、それと、とてもどうでもいいことだけど、彼女がぼくに触れられるという事態に、どこか遠い場所で起こった物事を考えるように、ただぼうっとしていた。
「だから私はそんな私が大嫌いなのよ」
 言い捨てて彼女は斜め下に目を逸らす。けれど、何か思うところあるように、次第にぼくを見つめてくる。そしてその視線はとてもまっすぐで、強い。
 由香からこんなに強く見つめられることは、思えば初めてだったかもしれない。ぼくの方からは何度も見つめた。彼女がぼく自身だったからか、ぼくが彼女に伝えたいことがあったからか、言葉の代わりにそれだけしか知らない人のように視線を投げていた。でも、こんな状態になってようやく、ぼくらは初めて互いを見つめ合ったような気がした。

 ――ぼくが由香を捨てない。由香もぼくを捨てない。そんな道を見つけられたような気がしたのだ。

「中途半端なやる気と優しさしかなくて、怯えて、いつも失敗して、それでどっちつかずで、人の顔色気にするくせに馴染めなくて、変わろうとしても、結局駄目で……それで自分をどんどん追い込んでって、立ってる場所がぐらぐら、ゆらゆらして」
 まるで、と言いかけて、彼女は苦笑に近い表情を浮かべた。
「まるで三本足で立つガラス細工みたいな私が、本当に嫌いだった」
 見つめることはやめないで、彼女は声をやや落とす。
「嫌だった。本当に嫌いだった。猫を助けていい気分になったくせに、結局何にも出来ないで死なせちゃうし。でも」
 緩く巻かれ茶色に染められた髪を一房持って、やはり苦笑する。
「でも、化粧したり、髪染めたり、お母さんとお父さんに気まずくて、口きけなくなったり、学校行かなくなったり、夜遊びしたり、センターで友達必死に作ったり、その子達と何回も絆確かめるようなからっぽなメール送り合ったり、勉強サボったり」
 髪をぱっと放つ。苦笑は段々と涙の滲みそうな、どこかくたびれた表情に変わっていった。
「そうやって……私から遠ざかっていく「私」が」
 何度か由香は言い淀む。ぼくから目を離さずも、どこかに言葉を探していく。
「本当は一番、変で、苦しくて、やっぱり自分を追いこんでいくから」
 そして拳をひとつ固める。

「嫌いだったの。今の、この私が」

 ぼくら二人に、瞬きが何度かあった。由香は続ける。
「消してしまいたかった。あんたを捨てたように。
 そしてもとの自分に戻りたくて、もう一度、やり直したかった」
 もう受験生だからさ、とばつの悪い顔で由香は笑った。――そうか、そんなことだったのかと少し拍子抜けしたけれど、ぼくも笑って見せた。もう時間だよ、とはそんな単純なことだったのか。自分で言っておいて、実のところ何の時間なのかわからなかったのだ。
「でもそうじゃないのかもしれない」
 そう聞いて、ぼくはちょっと要領を得れない顔をしたのだろう。
「あんたがあと少し、ってところでやめちゃったから」
 どこか不満げに言う由香。はあ、と肩を竦めるぼく。

「あんたがさっき言ってたことからすると、――それって私が心のどっかで思ってたことなのかもしれないけど――今の私も、消えちゃいけないみたい」

 頷く。だからぼくは手をひっこめたのだ。

「すごく嫌なことだけど、でもそれは、すごく救われる、いいことなのかもしれない」

 言いながら由香は指を組んだ。
「なんていうか、シャクに障るって言うか、そんな感じだけど、どんなにひどい私でもいいんだよって……誰かに許してもらえてる気がするのよ。なんかね。
 これから先どうなっても、それは間違ってないんだって、そう言われてる気がする」
 都合良すぎるか、と笑った。

 ぼくはしばらく言葉を失った。――確かに君の言う通り、それは甘えだと、ぼくはそう切り捨てることも出来るだろう。でも、ぼくは頭を振った。

 ぼくは、そうしない。

「それでいいんだ」
 再び手を伸ばす。
「そう。ぼくはそれが言いたかったんだ」

 ぼくが消えるんじゃない。由香も消えるんじゃない。
 うん、と由香も手を伸ばしてきた。
 ぼくも彼女も今度こそ怯えることは無いだろう。

「それを忘れないで」

 重なる指先。強まる背後の光。包むように彼女の髪を揺らす、吹かないはずの風。
 この後、由香がどうなったかはわからない。けれどぼくという存在はゆっくりと、暖かなものに溶けていく。記憶と記憶が結合し、体の細胞全ても融合し、新しく作りかえられていくような感覚。浮くような、揺れるような空間に飛ばされる。
 高まる熱、鼓動。それが一気に鎮まり、まるで微睡んでいくような優しさに、ゆっくりと沈んでいく。沈んだ先にある、ぼくと由香に訪れていた全てを一度抱きしめ、手放し、それでいてもう一度抱きしめる。


 苦しくもあって、切なくもあって、惨めでもある。
 だけどそれらが、どうしてか全て愛しいのだ。捨てられないのだ。



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