秘密を開放した空間に虚無の風が吹く。梢同士が擦れ合う音以外何も聞こえない。由香は依然顔を上げず、ぼくはただ立ちつくした。彼女をぼくはずっと見続ける。見つめ続ける。確かに視線は能弁だ。でもそれだけじゃ想いは伝わらないのだ。
ぼくには彼女に伝えるべき言葉がある。ぼくが考えたものなのか、それとも由香が考えていることなのか判然としないけれど、それらは自然と浮かんできた。無口だったぼくの口から、沢山の想いの使者が溢れていく。
「ねえ由香」
ぼくは語る。
「自分って、今までの自分の積み重ねで出来上がったものなんじゃないだろうか」
由香からの返事は無い。それでもぼくは尚語る。
「年齢みたいなものだ。常に変わり続けていって、だけどずっと、自分は自分なんだ。一日一分一秒だって無駄な君はいない。どの瞬間の君が欠けてもいけない」
ほんの少し、目蓋を下ろす。視界はぼんやり滲んだ。
「君が嫌いなぼくも、由香という人間に欠けてはいけなかった。どの時間の君も、どの時間のぼくも、否定出来るものじゃない。全部が全部愛しむべきものなんだ。
感情もそうだ。嬉しさとか悲しさとか悔しさとか、あるいは怒りや憎しみや絶望、弱さといったものも全部、切り捨てることは多分、出来ないんだよ」
そして完全に目を閉じる。
「君が小島由香である限り、君が君を――ぼくを消すことなんて出来ないんだ。
作り変えて生活していったとしても、君が君を捨てることなんて、出来ないんだ」
ぼくは言葉を続けた。
――でも、続けながら、ぼくの頭に徐々に渦巻いていくものがあることを、感じずにはいられなかった。
「無理に嫌いな自分を引き剥がす必要なんてない」
未だ項垂れている由香に手を伸ばす。――そんな自分を俯瞰しながら、こうも思う。
ぼくが言っていることはわかる。だけど心のどこかでこう考えもした。
これで、本当にいいんだろうか。
ぼくは矛盾していないだろうか。
「由香」
ぼくがやろうとしていることは、由香の、無意識と有識の狭間にある望みでもあるはずだ。だから、だからぼくは手を伸ばす。
けれど、由香がこの手を取ったら、どうなるのだろう。
「もう、時間だよ」
由香は、ふらふらと首をもたげた。――その目に生気を感じられなくて、ぼくは密かに震えた。
この手を取ったらどうなってしまうのだろう。
この手を取ったら、今ここにいる――不登校で親とも先生とも折り合いが悪くて、夜遅くまでふらふら出歩いて、髪を染めて化粧をして、常に何かに不機嫌でいるような由香は――ぼくを捨てて、別人のようになったけれど、それでも、それでも確かに生きてきたこの由香は、どこへ行ってしまうんだろう?
ぼくが由香になるのか?
ぼくの指と、由香の指が、重なろうとする。
きっとこうしたら、ぼくが、由香になってしまうのだ。
この目の前の由香が消えてしまう。ぼくには、わかる。由香だってぼくだって同じ人物同士だから、別にいいのだろうか? でも果たしてそんな理屈で目の前のこの由香がいなくなっても、いいのだろうか?
どんな自分も否定出来ないんじゃなかったのか?
どこかおかしい。何かが間違っている。
だめだ。
「だめだ!」
ぼくはすんでのところで、手をひっこめた。――と同時に、由香の目に戸惑いの色と共に光が戻ってきた。
「そんなのは、あの時とおんなじだ」
引っ込めた手にはなんら不思議な力を感じない。何の力もない掌だ。でも、確かにあの由香を捨てようとしていた。あの日のぼくのように。
「由香がぼくを捨てたように、ぼくが由香を捨てる。結果的に捨ててしまう。そんなの、結局同じことの繰り返しなだけじゃないか。そんなの」
そんなの、とぼくは腕を握りしめ、項垂れて、そのまま地面に頽れた。声には微かな涙の気配が浮かんでいた。
「あのガラス細工と一緒だよ」
三本足のガラスの小鹿。どこで手に入れたのかもう忘れてしまったけれど、きっと今日みたいな、たくさん出店の出るお祭りか何かの日だ。
「ぼくはぼくだけでぼくじゃないし、由香だって由香だけで由香じゃないんだ」
ぼくはそれをとても気に入っていた。いろんな小物と並べていても、別のガラス細工を買っても、何かの衝撃で足が欠けて三本足になってしまっても、ずっとずっと大好きだった。
そうだ。あのガラスの小鹿はぼくだ。由香だ。
自分が欠けてしまった、自分自身だ。
欠け続けている、自分自身。
うずくまって、ぼくは、声も無く涙も無く、ただ無性に、息遣いで泣いた。何をすればいいか、どうして泣くのか、やっぱり――わからない。ぼくは最初から最後まで「わからない」を言い続けるんだ。だから、ただ泣いた。
ぼくはこれから、どうすればいいんだろう? ぼくがやろうとしたことは本当に由香の望みなのだろうか。ぼくはどうやって帰るべきなのだろう。帰るとしてもどこにいけばいいのだろう。自分でまた穴を掘る? そうしてぼくはまた自分を殺すんだ。
そもそも、ぼくはここに来るべきじゃなかったんじゃないか? 由香の前に現れるべきじゃなかった? じゃあ、ぼくは何でここにいるんだ? 何で、何で。
「何で、どうして、ここに」
さっきまでの由香と似たようなことを呟いているのは、同じ人物だからだろうか。同じようにぼくも顔や体を触る。確かな輪郭や質量を感じてもぼくは疑ってしまう。ぼくみたいな存在にそういうものが本当にあるのか? そもそも記憶や意識なんてものもあるのか? そこに意味はあるのだろうか?
全てが音を立てずに明瞭さを失っていく。ぼくは穴を掘ろうとする。でもそこには何も無い。ぼく自身がそう言ったじゃないか。それどころか上手く掘ることが出来ない。掴んだ土がぼろぼろ零れていく。ぼろぼろと、ぼくという存在が、欠けていた存在が、またしても欠けていく。
きっとぼくはこのまま消えてしまうのだ。欠けてはいけないというのに。ぼくも由香も欠けてはいけないというのに。
じゃあ――ぼくらは、どうするべきなんだ?