それからのことを、ぼくは――かつてぼくであり、私でもあった私は、もう覚えていない。
 庭園に咲く桜をぼんやりと見上げ、私は掌の上でガラス細工を転がした。
 歳を重ねていくと、幼い頃の記憶が本当にあったことだったかどうか、それとも夢の中の出来事だったかどうか判別がつかなくなるんだ、と授業で先生が何となく話していたのを思い出す。あの一夜の記憶も私の中ではそうなりつつある。いつか見た夢のように遠い出来事。
 でも私は確かに私と私を出逢わせた。そしてひとつになり、私になり、今に至る。もうあの一夜から、大体二年が過ぎていた。
 また、桜の咲く季節になった。





 あの後、気が付くと私は庭園の入り口で立ちつくしていた。まるで私を待っていたぼくが、そのまま立ち続けていて、待ち人来ずで途方に暮れていたように。格好は、さすがにぼくのままじゃなく、私――由香のものだったけれど。
 それから、ゆっくりと私は変化していった。すぐに不登校は直せなかったけど、センターに行って真面目に授業を受け始めた。授業をさぼって友達と遊んだり、夜遊びでふらふらするのではなく、ただ実直に勉強し始めた。
 ぎこちなくだけど、親や先生とも話しあうようになった。私だけじゃない。お母さんも段々元気を取り戻していって、お父さんも夜遅くのお酒を減らすようになった。私は髪の色も徐々に戻して、だけど化粧やネイルをするのは好きだったからこっそりと続けていた。

 そうやって私は、無事に高校生になった。
 そしてこうやって、課外授業としてあの庭園にお花見に来ている。






 ――ひとつ心に残っているのは、「ぼく」という性別をくれた、あの猫のことだ。
 中学一年生の時の暑い夏休み、私は瀕死の状態でいる仔猫を見つけ、介抱した。と言っても結局は死んでしまったけど、仔猫を助けられると驕っていたのは確かだ。その猫の死で自分が崩れて、そしてあの夜を体験したことを思うと神妙な気分になる。
 押し入れの奥の小皿を捨てるか残すか迷った。最終的にはもう一度ちゃんと洗って、押し入れに入れたままにした。捨てるのは何だか嫌だった。桜の木の下を、あの夜のように掘り返したとしても、「ぼく」が言ったように猫の姿は跡形も無くなっているはずだった。多分骨も残っていない。それでも、なかったことのようにするのは、嫌だったのだ。
 あの猫が助かっていたなら、あの猫と出逢わなかったら、私はどんな風に生きていただろうと思うことがよくある。――遅かれ早かれ、私は猫の死に類するショックで結局は「ぼく」と私に分かれていたんだと思う。
 でもそれはどちらも、もう想像でしか存在出来ない世界だった。多分、これからの人生で、そういう「想像でしか存在しない世界」という、もう一つの未来や可能性というものはますます増えていくんだろうとただ思った。そしてそう思う度、これから広がっていく未来に途方もない想いを馳せることしか、私には出来なかった。





 猫と一緒に埋めたガラス細工は実際のところどうなっているだろう、とまたガラス細工をいじりながら、私は視線を動かす。
 学校の友達は桜の写真を携帯電話で撮ったり、あるいは出店のたこ焼きや焼きそばなどを買って、花より団子状態で食べ合ったりしては雑談している。平和な光景。一線外にある長閑な世界。二年前にここで起こった出来事を話したところで、夢でも見てたんじゃないのと皆笑うか、その話由香が考えたの? 不思議、と言うんだと思う。
 別にそれが悲しいわけじゃない。至って普通のこと。
 それでも、私は何だか切ないような、懐かしいような気分になって、あの日立っていた桜の木の下で、どことも知れない場所へと想いを寄せていた。
 掌の上のガラス細工は、わざわざ家から持ってきたわけではない。不思議なことに、あの日と同じようにガラス細工の出店の人に貰ったのだ。……二年前と同じ人ではなかったけれど、偶然にしては出来過ぎていた。懐かしさが閾値を軽く越えてしまって、それが切なさを一緒に連れてきたんだと思う。
 そしてそのガラス細工は足が欠けているのだ。もっとも鹿ではなく子犬だけれど。
 私はそれ越しに空を見つめてみた。空色はガラスの色に被さって見えなくなり、そしてぐにゃりと歪んだようになる。一見して快いものではない。不吉だった。
 でも、それは私が見ている範囲の話で、実際空も世界も大して変わらない。桜の枝を加えてみても同じ。微笑み合っている友達たちを映してみても同じ。

 世界はどこまでもただ、世界だった。
 まるで自分自身のように。

 不意に、誰かにこの様子を見つめられているような気がした。ガラス細工を掌に包んで辺りを見回す。特に誰が見ているわけじゃない。あの日と同じで、私の行動を気にする人はいない。
(誰に見られてたのかな)
 もう少し見回してみる。その場にも居づらくなって、私は緋毛氈の敷かれた長椅子の方へ向かった。そこでは変な視線も感じないし、特に不審な人もいない。
(気の所為かあ)
 もしかすると、とガラスの子犬を制服のポケットに仕舞いながら思った。
(私の中の私が、私を見つめていたとか)
 あの日の「ぼく」のように。「ぼく」がずっと、私を見つめていたように。
(内側からどうやって見るって言うのよ)
 ばかばかしいやと頭を掻きながら腕時計を見るともう集合時間が近かった。由香ちゃん由香ちゃんと友達が集まってきた。
「もう行こー? ところで何してたの?」
「物想いに耽ってたの」
「何それ。ギャグ?」
「何でもないよ。ああ、なんか名残惜しいなあ」
 学校帰るのだるーい、と私はうんと伸びをした。私の言葉を変に思う子はいない。
「まじまじ。ここで解散にすりゃいいのにねえ」
「ホントうちって変なところキマジメー」
「ねー、このまま街行きたい」
 いいね、服欲しい、どっか見に行こうよ――そうやって、やいのやいのと言いあって笑う彼女達が、私はとても好きだった。特に何も言わず、私はただ目を細めていた。
 そうしていたら、私の腕に、誰かがぶつかった。
「わっと」
「っと。ああ、ごめん麻里」
 坂を下っている途中だったから、転んだら危ないところだった。大丈夫だよーと笑う麻里だけど、私にぶつかった相手にあからさまに不機嫌な視線を投げていた。
「もう、人にぶつかったら謝れっての。中学生かなあの子」
どこ中? 制服着てないね、今日休みとか? と他の子達もその子の行方を目で追った。私もそうするけど、その子の足は早く、バス停の方へ曲がっていったから視界から外れてしまっていた。
 ぶつかっても謝らないくらいだ。急いでいたか、不機嫌だったか。
(なんかあの日の私みたい)
 思わず苦笑した時、私の傍を一陣の風が吹いた。

 あの子を追いかけるような、誰にも気付かれないような風が吹いた。
 すぐに横を向いても、もうそこには誰もいない。
 そもそも最初から、誰もいなかった。

「由香? どしたの?」
「きよちゃん……今……風吹いたよね?」
「え? どうだろ」
 覚えてないけど、ときよちゃんは頬を掻いた。麻里に訊いても、他の子に訊いても、皆覚えてない、わからないと返す。――当たり前だ。風なんて一瞬の出来事で、個別に分かるものじゃない。
 平気なふりをしながらどこか不思議な気分になって、坂を下りて庭園を振り返る。
 桜はあの時のように何も語ろうとはしない。でも私には何か予感があった。けれど予感があるからといって、私でしか無い私には、どうすることも出来ない。
 こんなのは偶然だ。欠けたガラス細工をまた貰ったことのように。あの日の私のように不機嫌な中学生がいたことも、あの日の「ぼく」のように彼女を追いかけた風があったことも、偶然に過ぎない。
 私はあの子じゃない。「ぼく」と違って。
 だから、そう、わからないのではなく、何も出来ない。伝えられない。



 けれど私は、今夜どこかの誰かに、この庭園で何かが起こるような――どこかの誰かが、大切なことに気付くという――そんな予感を確かに抱いていた。


(了)

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